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凛凛孤風不自誇 端居寰海定龍蛇  (碧巌録) りんりんたるこふうみずからほこらず、かんかいにたんごしてりゅうだをさだむ

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凛凛りんりんたる孤風こふうみずかほこらず、寰海かんかい端居たんごして龍蛇りゅうださだ

『碧巌録』第十一則に「黄檗曈酒糟おうばくとうしゅそうかん」という公案があります。

す。黄檗おうばくしゅしめしていわく、「汝等諸人なんじらしょにんことごとこれ曈酒糟とうしゅそうかん恁麼いんも行脚あんぎゃせば、いづれのところにか今日有こんにちあらん。かえって大唐国裏だいとうくり禅師ぜんじきことをるや」。

 

「お前さん達は、どいつもこいつも・・・・・・・・酒糟喰さけかすくらいの能なしどもだわい!あちこちウロウロしていて、とてもほんものの禅僧にはなれないぞ! 思えばこの大唐、四百余州広しといえども、真の禅僧は一人もおらんわい! この俺だけがほんものだわい!」

当時の禅界は、いたずらに禅を外に求め、師を他に求め、宿なし犬のようにウロウロ、ただただわらじをスリ減らす乞食根性の雲水達が多かったようで、それ等の修行者にヨソ見ばかりしないで腰を落ちつけて、自分自身の仏性に目ざめるべく修行に専念しろと、黄檗希運禅師は痛烈な一棒を与えたのです。

「大唐国裏に禅師なし」、これは、お山の大将俺一人と云った、ハッタリでも自惚れでもありません。

釈尊以来、一器いっきの水を一器のうつわに移すかのように、綿々と伝えられて来た禅の命脈を自分のものとした自負心と、それをまた伝えていかねばならぬ責任の重さから自然に出て来た言葉です。その辺の消息と身長七尺と云われる黄檗希運禅師の偉丈夫の風貌を想って、『碧巌録』の編者、雪竇重顕せっちょうじゅうけん禅師がこの則に置いたじゅが、この「凛凛たる孤風……」の句です。

凛凛たるとは勇ましい、雄々しい様子、寰海とは天子の領国内、端居とはどんと坐り込む事、龍蛇を定むとはほん真ものか、偽ものかを見わける事。

黄檗希運禅師(?~849?)は、「身長七尺、ひたい円珠えんじゅ有り、天性禅てんせいぜんす」と云われるように、まさに堂々たる偉丈夫で生まれながらにして禅を会得していたと云われる禅傑です。その禅風は誰一人として、そばに寄る事が出来ない程厳しく、また雄々しく、孤高にして悠然たるものです。そして中国四百余州の広大な国土のど真中にどっしりと坐り込んで諸方の禅師達の真偽を見分けようと、天下を睥睨へいげいしておられるというのです。

この句で思い出す事は江戸時代の臨済宗の僧、愚堂東寔ぐどうとうしょく禅師(1577~1661)の話です。

師は美濃に生まれ、出家の後、諸方行脚の末、京都妙心寺山内の聖沢院しょうたくいん庸山ようざん和尚に師事して修行に励みます。ある夜、庸山和尚の叱責を受け、大いに発奮し、素裸になって竹藪の中に飛び込み、坐禅三昧に入ります。夜は更け、夏の事とて数百の藪蚊が襲い、顔、手足、体、ところ嫌わず刺します。見る見る全身グミのようには腫れ上がり、血を吸い過ぎてバタバタ蚊も落ちます。その壮絶な雰囲気の中で悟り、その後、妙心寺第一座だいいちぞの僧位となり、春日局かすがのつぼね伊達政宗だてまさむねの帰依を受け、妙心寺の造営に力を尽くします。

禅師83歳の時、妙心寺開山三百年の法要の折、大導師を務めます。百余人の衆僧を率いて、法堂に昇殿し香を献じ音吐朗々おんとろうろうを唱えます。

二十四流にじゅうしりゅう日本の禅
惜しい哉 大半其たいはんその伝をしっ
関山幸かんざんさいわいに愚堂の在る有り
続焔しょくえん聯芳三百年れんぽうさんびゃくねん

 

 日本に伝わった禅の流は二十四流を数える。しかし惜しいかな、その大半は絶えた。妙心寺の開山、関山国師の流れは幸いにこの俺、愚堂が伝えている……。と、衆僧の中から、「愚堂だけじゃない! ここにもいるぞ!」と大声で絶叫する一人の僧がいます。越前、国泰寺の大愚和尚です。この声を聞いた愚堂和尚、ニヤリと笑って、「愚堂在り」を「児孫在り」と訂正して唱え直して無事法要を円了します。「愚堂の在る有り」と喝破する国師の意気、志気、「凛凛たる孤風自ら誇らず、寰海に端居して龍蛇を定む」の消息です。