『無門関』第四十四則に「芭蕉註杖」と題する公案があります。その中で註杖を讃える句がこの語です。註杖とは修行する雲水僧たちが、諸方を行脚する時に持っている杖のことです。一般的にいって“ステッキ”のこと。断橋の水とは橋のない川。無月の村とは月がなく真暗闇の村のこと。
すなわち、行脚の途中一本の杖がありさえすれば、それを頼りに橋のない川も渡ることができるし、一本の杖をついてまくらくら闇の村へも道を違えずに帰ることができると、註杖の効用を礼讃した意です。
この一本の杖が一体何を指しているのか、この語の眼目です。
禅的には感情的な常識的な自分ではなくて、もう一つ奥底にある永遠的な自己、静かな自己、すなわち、本来の自己を杖に喩えています。その杖さえ自分のものとすれば、今まで経験したこともないすばらしい世界を味わうことができます。
しかしその自己は、どこか遠い、また、高いところにあるのではなくて、私たちの手もとにいつもあるのです。朝起きてから夜寝るまで、否、寝ている時でも、私たちと形影相伴って一緒であるというわけです。
「同行二人」という言葉をお遍路さんの笠と白衣に見かけますが、道づれができて二人という意味だけではありません。いつも弘法大師と一緒、本当の自分と一緒ということです。
鈴木大拙博士はいつも、「自分の中にもう一人自分がいるんだという事をよく見よ」と語られています。そういう理屈はさておいて、この語は端的に教えていることがあります。
人生には山もあれば川もあります。晴天もあれば雨天もあります。橋のない川もあるでしょう、真暗闇の夜もあるでしょう。そういう時、本当に自分を支え導いてくれる、心から頼りになる杖のようなものが欲しいものです。それが夫であり、妻であり、友人であり、信仰であり、他のものであるかも知れません。何でもいいのです。杖を持った人は強いものです。何か一つ自分の杖を持ちたいものです。
よく結婚式の披露宴に招かれます。この語をもち来たって夫婦の在り方を学んでもらっています。