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老倒疎慵無事日 安眠高臥対青山  (碧巌録) ろうとうそようぶじのひ、あんみんこうがせいざんにたいす

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』

(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

09月を表す季節の画像

老倒疎慵無事の日、安高臥青山に対す

 

老倒とは老耄顛倒ろうもうてんとうのことで、おいぼれてひっくり返るの意。疎慵とはものういこと。安眠高臥とは何の気兼ねもなく高イビキで寝ること。

 

すっかり年を取っておいぼれてしまった、何をするのもおっくうでやる気が起きない。大の字にゴロリとひっくり返って、窓の外の青々とした山を眺めながら、悠々自適の生活を送る境涯を述べたものです。しかし、禅門においてはこの「無事」という言葉に留意して、この語を別な意味に見ます。無事の人とは、志を立てて以来雪霜辛苦せっそうしんく、人知れず泣きの涙で苦労艱難かんなん、修行に修行を重ね、練りに練り、鍛えに鍛えて、二十年、三十年、いや五十年、もう修するに修するの道なく、学するに学するの法もなき所に至り、しかも今まで学んだ法も、修した道も、成した悟りも一切を忘却し去って、平々凡々に好々爺こうこうやのごとき心境に至った人をいいます。すなわち、「みそ臭きは上みそにあらず」といわれるように、悟りだの迷いだの、禅道だの仏道だの、そういう一切の臭みも抜け切った、その辺の長屋の八つぁん、熊さんの手合と同じような人を指します。

 

禅門では一休さん、良寛さんのような方を指して「閑古錐かんこすい」「無歯むしの大虫だいちゅう」と言いますが、使い古した錐きりは尖さきが摺すりへって角もなくなり、無用なものとして誰からも忘れられた存在です。歯の抜けた大虫(トラ)はもうこわくありません。何の役にも立ちません。このように愚のごとく、魯のごとくに「無事」に徹した人を、「閑古錐」「無歯の大虫」と言います。

こういう人たちの消息を、「老倒疎慵無事の日、安眠高臥青山に対す」と吟じたわけです。

 

しかしこの語は功成り名遂げた一人老翁の、かっこよい境涯を述べただけでしょうか。

 

現実問題として私たち人間は、老い病み死んで行く宿命をもっています。優れた禅者といえども「生」の人間です。「老」の宿命は免がれることはできません。
ある日突然、口がきけなくなったり、手足が動かなくなったりしたら、私たちはどう思うのでしょうか。その時初めて「老」ということがどんなに残酷で耐えがたいことかを身をもって痛感することになるのです。その時節に、「老倒疎慵無事の日、安眠高臥青山に対す」と悠々と言えるでしょうか。

 

『(-1)ヘルパー奮戦の記――お年寄りとともに』を書いた井上千津子さんは、ここ十年間ヘルパーとして寝たきり老人、ひとり暮らしの老人世帯で家事援助、介護、生活相談等をしてこられた人ですが、「この十年ヘルプ活動はあなたにとって何でしたか、これからも続けますか?」という質問に答えて、「人間が生きて行くことがどんなにつらいことかを目のあたりにして、逃げ出したくなることもありました。それが出来なかったのは、老いがどんなにむさくるしいものであっても、懸命に生きる人間がそこにいたから、というほかありません。人間としての証(あかし)を、人間としての叫びをあげるものがいて、私を必要としている限り、その人からソッポを向くわけにはいきません。その中で、私も生きるよりどころを求めていくしかない」と。(昭和五十六年七月十日『朝日新聞』参照)

 

懸命に生きる! 生きるあかしを! 人間としての叫び! この日々が、「老倒疎慵無事の日」でなければなりません。

 

陶芸家であった河井寛次郎さんの言葉にあります。

 

顧り見ればあらゆるものから歓待を受けているわれ吾等われら

この世へお客様に招かれて来ている吾等われら

                                        (「饗応不尽」より)

この言葉をよくかみしめて、もう一度、「老倒疎慵無事ろうとうそようぶじの日、安眠高臥青山あんみんこうがせいざんに対す」の語を読んでください。口がきけなくとも、手足が動かなくとも、どんなに苦しかろうとも無事の日であることが自ずから理解できるはずです。