恐れの為に髪の毛が立つ事を「竪毛(じゅもう)」と云います。
寒さの為ではなく、驚き、恐れ等の異常な感情の高ぶりの為に、総けだつ、身の毛がよだつ事を「寒毛卓竪(かんもうたくじゅ)」と云います。
『碧巌録』第二則「趙州至道無難(じょうしゅうしどうぶなん)」の公案の頌に「檻前(かんぜん)山深く水寒し」とあります。
檻とは格子の窓の事。即ち、坐って格子窓より眺めると、山は遠くに連なり、いよいよ深く、せせらぎは飛沫をあげて細く激しく流れ、実に寒々しく思われます。この現成の景色こそが至道(悟り)の当処であるというのです。
それに圜悟克勤禅師が「一死更に再活(さいかつ)せず。還って寒毛卓竪することを覚ゆるや」と著語します。
即ち、「大死一番絶後に蘇る」と云うが、一度、真実死に切って、無に徹した者でなければ、この消息を会する事は出来ないぞ! どうだお前さん達よ! この一句を聞いて思わず、身の毛もよだつ思いをしたか! しなければとてもとてもこの則に参じたとは云えないぞ! と云うのです。
「駿河(するが)には過ぎたるものが二つある。富士のお山に、原の白隠」と俚謡(りよう)にまでうたわれた近世の禅者、白隠禅師(一六八五~一七六八)は自伝の中で、寒毛卓竪を何度も何度も喫して大成したと述懐しています。
白隠禅師十一歳の折、母に連れられて近所の昌源寺に参詣し、日厳上人の法華三大部一つ『摩訶止観(まかしかん)』の話の中で、死んだ後、閻魔大王の地獄の懲らしめの様子を事細かに聞きます。
白隠禅師は、蝉やとんぼや蝶蝶などをもてあそんでは殺し、蛇や蛙を苦しめ、友達と喧嘩もすれば嘘も平気で云う毎日の生活を子供ながらに反省し、地獄に堕ちる事間違いないと思い体中が震えて、居ても立っても居られなくなります。
また、ある夕方、母と風呂に入ります。女中の焚く風呂釜の湯が沸き立ち、風呂の底の鉄盤がゴウゴウと鳴り、肌がピリピリ痛くなって、加えて焚き口より炎が烈しくほとばしるのを見て、これこそが先日聞いた焦熱地獄の苦しみだと思い、母に抱き着き激しく哭き、風呂の中で震えて居たと述べています。
この地獄の苦からの脱却が彼をして出家せしめ、長い長い修行に駆り立てたのです。
しかし、その修行も行き詰まり、大いに悩み苦しみます。たまたま大垣の瑞雲寺で、蔵書の虫干しを手伝います。内外の書物数百巻の中に坐して、静かに瞑目して、「儒(じゅ)」「仏(ぶつ)」「老(ろう)」「荘(そう)」、いずれの道を選ぶべきか我に道を与えよ、と手を伸ばして一冊の書を取り、サッと開きます。それが『禅関策進(ぜんかんさくしん)』の書だったのです。開いたページは「慈明引錐自刺(じみょういんすいじし)」の章だったのです。
昔、慈明(じみょう)、汾陽(ふんよう)に在りし時、大愚(たいぐ)。瑯(ろう)や瑛等六、七人と伴を結んで参究(さんきゅう)す。河東の苦寒、衆人之れを憚る。明独り通宵(つうしょう)坐して睡(ねむ)らず。自ら責めて曰く、「古人刻苦光明必ず盛大なりと……」。即ち錐(すい)を引いて自ら其の股を刺す。
この話を一気に読んだ白隠禅師は、まさに身震いするほど驚愕慚愧(きょうがくざんき)し、「此れ真に是(ぜ)なり、苟(いやしく)も是の如くにあらずんば真の参学とい謂うべからず」と嘆じたと伝えられています。そして、五百年間不世出の傑物として崇拝されているのです。
「寒毛卓竪」、物質的にも精神的にも暖房の行き届いている昨今、参ずべき言葉ではないでしょうか。