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水底石牛吼 (普灯録) すいていにせきぎゅうほゆ

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より


11月を表す季節の画像

禅で悟りの内容を示す言葉に「正偏五位(しょうへんごい)」と云うのがあります。即ち「偏位(へんい)」とは山あり、川あり、男あり、女ありの差別歴然の現実の世界を云います。「正位(しょうい)」とは無に徹し切って山も川もない、男も女もない平等一味の世界を云います。この二つの世界が色々とかかわりあって、「正中偏(しょうちゅうへん)――正の中に偏がある、即ち大死一番の『無』の消息」「偏中正(へんちゅうしょう)――偏の中に正のある、即ち大活現前(だいかつげんぜん)の『有』の世界」「正中来(しょうちゅうらい)正位より働き出た妙用の世界」「偏中至(へんちゅうし)正偏一如の無礙自在(むげじざい)の世界」「兼中到(けんちゅうとう)偏中至が益々徹底した世界」という五つの位を作り上げるのです。

この「正中来」を拈じて云います。「無功用海中(むくゆうかいちゅう)、一点無縁(いってんむえん)の大慈悲心(だいじひしん)を煥発(かんぱつ)して、四弘(しぐ)の大誓願輪(だいせんがんりん)に鞭打って、入鄽垂手灰頭土面(にってんすいしゅかいとうどめん)の境涯(きょうがい)なり」、即ち無に徹した「無一物(むいちもつ)」の消息から、何の執らわれもない純粋そのものの大慈悲心を起こして、大衆を救わんが為に進んで巷(ちまた)の中に入って、一生懸命、真黒になって菩薩行を行ずる境涯だと云うのです。

古人はこの辺の消息に「水底に石牛吼ゆ」と著語しました。

深い深い海の底で石牛が吼えている。即ち「無」に成り切り、自分を棄て切って、ただただい為にん人ど度しよう生、そのすさまじいばかりの境涯は、普通の一般の常識や論理で理解出来るものではありません。その情理を絶した消息を「水底に石牛吼ゆ」と頌したのです。

哲学者、西田幾多郎博士は『善の研究』の中で語っています。

我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となり此処に始めて親子の愛情が起るのである。親が子となるが故に子の一利一害は己の利害の様に感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てゝ純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすゝむ、仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。

ここに仏教の「慈悲」のあり方が説かれています。

純愛、即ち真の慈悲行は私を棄てて無私でなければいけない、自分を棄て切ってこそ、自分を殺してこそ、初めて出来るというのです。そのすさまじいばかりの慈悲行の話があります。

第二次世界大戦中、アウシュビッツのナチスドイツの強制収容所で殉教したコルベ神父の話です。

一九四一年のころ、ポーランド、クラコビア近郊のアウシュビッツ収容所でポーランド人や、ユダヤ人を強制的に収容し、その囚人の虐待と虐殺はナチスの暴挙として忘れることは出来ません。

収容所の規則に、一人の捕虜が逃亡すると同じ獄舎の罪もない十人が死刑に処せられる条があり、この年の七月、一人の逃亡者が出て、十人が無作為に選ばれて死刑の宣告を受けます。

その中の一人、ポーランド軍兵士ガイオニチェックは自分の家族の悲しみを思い、嘆き悲しみます。その時、宣告者の収容所長の前につと進み出た、やせぎすで弱々しいが、気品と威厳を備えた一人の囚人がいました。

彼こそ四十七歳のマキシミリアノ・コルベ神父です。「あの兵士の代わりに私を処刑して下さい」と申し出ます。収容所長は一瞬唖然としますが、「よろしい」と云い、ガイオニチェックを列から外し、代わりにコルベ神父を死刑囚の列に入れ、死の地下室に連行します。

コルベ神父は最後まで囚人達を慰め励まし、神への祈りと聖母への賛美歌を先唱しながら死に至ります。
(平成三年十月二十八日『中外日報』参照)

コルベ神父のすさまじいばかりの慈悲行、「水底に石牛吼ゆ」の働きではないでしょうか。