この有名な語は、『人天眼目』巻一の「照用問答(しょうゆうもんどう)」に、黄龍(おうりょう)の死心悟新(ししんごしん)禅師(一〇四三~一一一四)の語として出ている。「照用」は臨済の用いた言葉で、物の本体を照(しょう)と言い、そのはたらきを用(ゆう)と言う。臨済は本体とはたらきの関係を四つに分けた。これを「四照用」という。そのうちの「先照後用」に対して黄龍は、「清風、名月を払う」と言い、「先用後照」に対して「名月、清風を払う」と付けたもの。
専門的な言葉の詮索はやめよう。ここではただ、あまりにも美しい秋の夜の風景を思えば良いであろう。秋の夜の名月は、もともと美しい(先照)。そこへ涼しい風が吹いてきたのだから、一層美しい。それが清風のはたらき(後用)であろう。
反対に清風が吹いて名月を払い浄めたのだとすると、はたらきの方が先にあって、本体を美しくしたのだとも言える。どちらが先かとなると、本体とはたらきは同時だとも言える。だから臨済は「照用同時」とも言っているのである。
ここに一組の夫婦があるとする。誰に言わせても、あの二人は素晴らしいと評判が良い。さて旦那はもともと好い男だが、嫁さんを貰ってから、もっと好い男になったと言われれば、それはやって来た奥さんの力が加わったからだ、ということになる。
いや、二人はもともとそんなに素晴らしい男と女ではなかったが、結婚した途端に二人とも素晴らしい人になったのだ、と言うと、それは相性が好かったからだとなる。これを先用後照としたらどうだろう。
私は、夫婦というものは、足し算ではなくて掛け算だと思っている。かけ算だから、1 × 1 = 1 である。足し算だと、1 + 1 = 2 で、一人が死んでも1が残る。
これは本当の夫婦ではない。夫婦は掛け算だから、一人が死ぬと1 × 0 = 0で遺された方も0になってしまう。
夫と妻ではしっくりしない。夫の妻、妻の夫と言うと、二人のあいだに隙間がない。
これこそ臨済の言う「照用同時」ではなかろうか。そういう関係であれば、先照後用とか先用後照とかいう、ややこしい話もすっ飛んでしまうのではないか。