禅語

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挙一明三 こいちみょうさん

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。 向上編』
(西村惠信著・2019.12 禅文化研究所刊)より

05月を表す季節の画像

 山を隔てて煙を見て、早く是れ火なることを知り、墻(かき)を隔てて角(つの)を見て、便ち是れ牛なることを知る。一を挙げて三を明らかにし、目機銖両(もっきしゅりょう)す。是れ衲僧家(のうそうけ)の尋常茶飯なり。

 昭和二十七年四月、花園大学へ入学して最初の月曜日、全学生が集まって学長山田無文老師の『碧巌録(へきがんろく)』の提唱を聴いた。生まれて初めてのことだから、その日のことは鮮明に憶えている。第一則の「垂示」に、冒頭の言葉が出てきた。
 山の向こうに煙の立っているのを見たら、火だなと察知し、垣根の向こうに角が見えたら牛だなと察知する。一隅を持ち上げただけで、もうあとの三つを見抜いてしまう。ちらっと見ただけで重さがどれくらいか分かる。そんなことは禅僧だったら当たり前のことだ、とまあ、そういう意味のことであった。
 別に禅僧でなくても、世の中にはときどき、「寸鉄(すんてつ)人を刺す」ような怖ろしい人がいることを、誰もが知っているであろう。ちょっと出逢っただけで、もう相手がどんな人間か見拔いてしまうような人である。あの人はよく切れる鋼のような人だ、と言われる人であるが、それだけに冷たいところがあって、親しみにくい。こんな人にだけはなりたくないものだ、と秘かに思ってしまう。

 そうかと思うと、『論語』公冶長に、「顔回という奴は、一を聞いて十を知る男だ」と孔子が弟子の顔回を褒めているところがある。中学生の頃、漢文の時間にこれを習って、自分もそういう賢い人間になりたいものだ、と思ったものであるが、どうやら不合格のまま人生が済んでしまった。
 『碧巌録』の冒頭で圜悟和尚が言っている、「禅僧たるものの素早い見抜き」は、そんな先天的な賢さを言っているのではない。あくまで俗世間的な忙しい人生を棒に振って、苦しい坐禅の修行をした結果として、自然に備わってくるような洞察力であるに違いない。
 そういう眼力を手に入れるためには、日常的なあれこれの雑念を全部払い落とし、心がいつも鏡のように清らかな「無」でなければならないのであろう。