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体露金風 (碧巌録) たいろきんぷう

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』 (細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

11月を表す季節の画像

『碧巌録』第二十七則にある話です。

 僧、雲門(うんもん)に問う、「樹(しぼ)み葉落つる時如何(いかん)」。門云(もんいわ)く「体露金風」。

 晩秋の頃、木枯らしが吹くようになると樹々の葉が枯れ始め、パラパラと落ち尽くします。その時は一体どう思いますか、と一人の僧が質問します。雲門禅師、すかさず「体露金風」と答えます。
体露とは、全体露現、赤裸々露堂々のまる出しのこと。金風とは五行説――中国の思想で宇宙の万物はすべて、木・火・土・金・水の五行の相生、相克の力によって生成されるという説――で、秋が金に当たることから、金風とは秋風のことです。体露金風、どこもかしこも天地一パイ、秋風だわい! というわけです。
この「樹凋み葉落つる時」が、何を意味するかによって、体露金風の意味も違ってきます。僧は眼前の風景を借りて何を言おうとしているのでしょうか。
見方は種々ありますが、「娑羅林中に一樹有り、林に先だちて生じ、一百年に足る。……其の樹、陳朽して皮膚枝葉悉く皆な脱落し、唯だ貞実のみ在り」と『涅槃経』にいうように、それを私たちの持っている煩悩妄想と見ることがより禅的です。すなわち煩悩妄想の樹が凋み、仏教だの、禅だのという葉も落ち尽くして、迷いも悟りも忘れ去った絶対的「無」の境涯を指します。 この僧、寸糸もかかることのない絶対的な「無」の消息を引っさげて雲門に迫っています。
雲門、「体露金風」とあっさりと答えます。見渡す限り晴れ渡った大空のもと、ここちよい秋風が颯々と渡って行くではないか、この清々しい風景を体一パイ楽しむことが悟りというものだよ。「樹凋み葉落つる時如何」などと、そうそう気張りなさるなよ。と、この僧の気負いを雲門は指摘しているのです。
体露金風。「無」といっても何もない北風ビュービュー吹くシベリヤの大雪原のような境涯ではなく、爽快な秋の景色こそが無に徹底した境涯というわけです。
『朝日新聞』の投書欄に、中野区の主婦、広川英子さんが投書しています。

 無宗教の私にとっても、この宇宙が、ある大きな力、神のような力によって動かされているような気持ちにさせられる時が、たまにある。それはキリストや釈迦などよりも、はるかに強力で偉大なもののように感じられる。澄んだ空、満天の星を仰ぐ時、その気持ちはさらに増大する。 太陽が山の陰から顔をのぞかせた瞬間、周りの雲は金色にきらめき、見守る者は感動で頭をたれたくなる。私もある山に登った時、合掌している自分の姿に驚いたことがあった。
その大きな力は、姿を変えて一本の草や木、一匹の虫にも存在しているように思われる。こう考えていく時、人間の中にも存在しているはずなのにと疑問がわく。が、悲しいことに、人間があまりにも知的に進歩し過ぎたために、神なるものを追い出してしまったのであろうか。
(昭和五十八年八月三十日『朝日新聞』夕刊「こころ」)

 広川さんの感動、体露金風の消息です。余りに知的になり過ぎる。心したいところです。ありのままの姿をありのままに受け入れる感動、すばらしいことです。