―天地我と同根、万物我と一体―(『涅槃無名論』)
肇法師という人の言葉である。同様のことは『荘子』の斉物論にも、「天地我と並び生ず。而して万物と我とを一と為す」とある。自分という一個の存在と、この広い大宇宙と根源は同じであり、従ってこの世界の中のあらゆる存在と自分は一つのものであるということ。
この世界のあらゆる存在と自分とは根源が同じ、という考えはキリスト教にもある。この世界は神が造られたものであるから、その中に存在するものは、例外なく神に根拠を持ち、したがって神の摂理によって動いているという考え。しかし、造物主である神と被造物としての世界には断絶がある点で、仏教の考えとは根本的に違うであろう。
同じキリスト教でも、スピノザなどの「汎神論」になると、この世界は神から流出したものであるから、神と深く繋がっていると説く。したがって世界のあらゆる存在には、多かれ少なかれ神性が宿っていることになる。
言葉を換えて言うならば、この世界のすべての存在は、一つの宇宙的生命とも言うべきものによって貫かれているという考えである。そういう考えは信仰の篤かった中世の人々の心を支配し、彼らは人間とあらゆる存在との間の深い連帯感を持って生きていたのである。
ところが近世になると、デカルトの物心二元論によってこの世界が、真っ二つに引き裂かれてしまったのである。知られるようにデカルトは、「我思う、故に我あり」と説き、心だけが「自己」の内容であるとし、形が眼に見えるものは心のない「物」であるとした。
この説によれば、自分の掌でさえ、自分(心)によって眺められる客観的な「物」に過ぎないことになる。こうして「近世的自我」というものが確立し、片やあらゆる存在するものは心を持たない物体となった。こうして人間は勝手気ままに、身体や自然の物に手を下した。お蔭で科学は大いに発達したが、同時に人間は、死せる物の海に浮かぶ孤島となり、遂に今日のような不安な時代を迎えてしまったのである。いま人々のあいだに科学についての反省と、エコロジーの問題に深い関心が寄せられているゆえんである。