中国唐代の詩人、王維の「竹里館」という詩の一節です。
独り坐す 幽篁の裏
弾琴 復た長嘯す
深林 人知らず
明月 来たって相照らす
たった独り静かな奥深い竹藪の中で坐り込み、琴を弾き、また長く声を引いて詩歌を吟じたりする。この楽しみは誰もわかってくれないけれど、明月が来て私を照らしてくれる。明月だけが私の心の消息を知ってくれるというわけです。即ち、禅の悟りに達した人が、静かな静かな自分の境涯を楽しむ消息は、誰にも語る事が出来るわけではなく、体験してこそ、初めて知り得るというわけです。
吾が心秋月に似たり
碧潭清うして皎潔たり
物の比倫に堪うる無し
我をして如何が説かしめん
と『寒山詩』でうたわれています。
この辺の消息を「深林人知らず、明月来たって相照らす」というわけです。
禅とは語るものではなく、また聞くものでもなく、坐るものだといわれています。坐るといえば拙寺でも、毎日曜日の早朝、坐禅会を開いています。一般人には一般人の坐禅があるとして、特別難しい規則を作る事なく、自由に坐ってもらっています。先般の大雪の日曜日の朝でも十人位集まって坐禅しました。何を好んでこんな寒い日に……と思う人もあるかも知れません。しかし、たとえ一時間でも坐れば、その一週間何となく気持ちよく過ごせるというのが参加者の言です。一般の人々には種々な仕事があり、それがあくまでも主務です。
仏教説話の中に、「塩の味」という話があります。
ある貧しい男が富豪の晩餐に招かれます。御馳走が出ます。皿に盛った豪華なものでした。空腹だった男はむしゃぶりつきます。「味はどうかね」と富豪は訊きます。「見た目よりいま一つですな」ともの足りなさを正直に告げます。「そうだろう。これがなかったからな」といって傍らの壺から白い粉をつまみ出して皿の御馳走にふりかけると、すばらしい美味に変わります。二皿目も三皿目も……同様です。
すっかり満腹し、男は辞去します。富豪は家で待つ妻子に今夜食べた御馳走の中で一番美味なものを土産として持って行くようにすすめます。男は白い粉を求めます。富豪は白い粉を壺ごと渡します。帰宅した男は妻子に白い粉を食べさせます。しかしこれを口にした妻子達は、いっせいに顔をしかめて吐き出します。それは「塩」だったのです。(寺内大吉『心と頭を鍛えるための仏教小話集』PHP研究所参照)
宗教は「塩」のようなものであって、日常生活に調味料としてまぶしてこそ最高の味を出しますが、主食のように食べたら不味くてしょうがないものです。宗教への狂信をいましめた説話です。
一般の人々にとって、坐禅も「塩」でいいのではないでしょうか。毎日毎日の生活の中に塩を少し加えて、「深林人知らず、明月来たって相照らす」の静かな静かな心を得たいものです。