唐の詩人、杜甫(712~770)の詩にある一句です。本来は上、聖朝、すなわち天子がよく国を治め、宰相たちがこれをよく補佐すれば、下、万民が皆それぞれの処を得て、自分の業を楽しむ、天下泰平の様子を叙した句です。「聖朝に棄物無し」。棄てるものがない、余計な者が一人としていない。宰相、役人はいうに及ばず、町人・百姓・乞食に至るまで、各々分に応じて、生き生きと動いている、生かしきっている消息です。
「棄物無し」とは、人間だけではありません。植物・動物・鉱物、生ある物、生なき物にかかわらず、一切万物にこの考え方を及ぼさなければ、この語に参じたとはいえません。一滴の水にも、一片の紙切れにも、一箇の石ころにも、私たちと同じように、”生命“があることを禅は教えます。その”生命”を感得すれば、棄てる物は一つとしてあるはずがありません。一つ一つを大切に生かしきっていくことが、自然に納得できるはずです。
京都妙心寺の門前に、「あじろ」という精進料理店がありますが、主人は一見使えそうもない、野菜の切れ端や皮を工夫して使いきることが、精進料理の本旨だと語っています。人参・大根・キャベツの一つ一つに生命のあることを知っているから、すべてを使いきることが、主人にとっては野菜に対する思いやりなのです。どうしても棄てなければならない野菜の屑には、「ありがとう」と合掌するそうです。
千利休の孫にあたる千宗旦に、こんな逸話が残っています。
京都、千本にある正安寺の住職が、ある日、たった一輪、美事に咲いた白玉椿の枝を小僧に命じて、今出川の千宗旦のところに届けさせます。小僧は真っ白に咲いた花を大事そうにかかえて急ぐうちに、誤って石につまずき転びます。白い花は、パッと飛び散ります。小僧は泣きべそをかきながら、花びらを一枚一枚拾い集め、懐紙にていねいに包みます。宗旦に「私の不注意からとんだことを仕出かし誠に申しわけありません」と正直に詫び、懐紙に包んだ花びらと花の無い枝を差し出します。宗旦は静かに受け取り、小僧を責めもせず、優しくその労をねぎらって、駄賃を持たせて返します。宗旦は花の無い枝を床の間に生け、落ちた花びらをなにげなくなにげなく床の間に播きます。青々とした椿の枝、床の間に散った花びら、それがまた、言うに言われぬ風情を醸し出し、いやが上にも茶室の雰囲気を高めたのです。
宗旦は花を失った枝を生かし、枝から落ちた花びらを生かし、茶室を生かしたのです。さらに小僧のまごころを生かし、贈り主、正安寺の住職のこころを生かし、宗旦自身の”茶道“を生かしきったのです。
すべてを生かしきる……、難しいことです。現実では、やむにやまれず棄てなければならないものもあります。すべてを棄てるな! と言えば漫画になってしまいます。私たちは「聖朝に棄物無し」の語から、今まで何気なく棄てていた一滴の水を、一枚の紙切れを、一片の野菜屑を、生かすことはできないだろうか? と振り返ることを学ぶべきです。”消費は美徳”の時代は終わりました。否、そんな時代は初めからありはしなかったのです。
禅語
聖朝無棄物 (槐安国語) せいちょうにきぶつなし
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』 (細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より