時は素早く過ぎていく
―金烏急に、玉兎速やかなり―(『碧巌録』第十二則、頌)
ある修行者が洞山守初和尚(九一〇~九九〇)に、「仏とは何ですか」と訊ねた。するとその時、台所で麻を秤にかけていた洞山和尚は、「麻、三斤じゃ」と答えた。その応答の素早さを、月日の移り変わりの早さに喩えて雪竇が頌ったものか。
修行者から「仏とは何ですか」、と問われた洞山和尚が、今、自分が量っている眼のまえの麻の重さを指さして、「この麻は三斤じゃ」と答えた。「洞山麻三斤」と言われる難しい問題である。ここで問答の野暮な詮索は、かえって怪我のもとになるから止めよう。
ただ、その返答の素早さを称えたものだというのが、禅門でのこの語の解釈であるから、この機会に、時間というものについて考えておこう。じっさい洞山が麻を量っているのも日常の作業の一端であるが、そのなかを時間は眼には見えない仕方で、どんどん流れて行っている。
いや、この場面で洞山は、麻を量ることに専念していて、その様子そのものが仏だと答えたと考えてもいいであろう。理屈っぽく言えば、仏などというような永遠不変な存在はどこにもないのであって、人生そのもの、生活そのものが、時間であり、それが永遠なる仏そのもの、ということになる。
そもそも、時間というものはどこにあるか。われわれは普通、時間は? と聞かれると、時計を見る。しかしあれは社会的な約束を果たすために、みんなで共有する客観的な目安である。だから、時計の文字盤は眼に見えない時間を、眼で見てわかるように分割した「空間」であって、断じて「時間」ではない。時間はすべて存在しているものに内在する本質として、眼に見えない形で現象とともにある。仏陀はこれを「諸行無常(あらゆる現象はじっとしていない)」と説いたのである。
道元禅師が『正法眼蔵』「有時」の巻のなかで、「時すでにこれ有なり。有はみな時なり」と説かれたのは、まさに言い得て妙なりであろう。