禅語

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溪聲便是廣長舌 けいせいたちまちこれこうちょうぜつ

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。 向上編』
(西村惠信著・2019.12 禅文化研究所刊)より

12月を表す季節の画像

身の周りに、仏さまがいっぱい
―渓声は便ち是れ広長舌、山色豈に清浄身に非らざらんや―(『碧巌録』第三十七則、頌の評唱)

 ある時、盤山宝積和尚(生没年不詳)が、「三界無法、何処にか、心を求めん」と、言われた。三界とは「欲界、色界、無色界」という迷いの世界である。そのどこにも頼るものはない。そうなればどこにこの心を求むべきか、と言われたのである。表題の語はそれに対して、圜悟が付けた、有名な蘇軾(蘇東坡、一〇三六~一一〇一)の詩である。谷川のせせらぎはお釈迦さまのお説教の声、山の景色はお釈迦さまの姿じゃないかという意味。

 現代という訳のわからない時代に生まれてきて、ともかく時間に流されるように、何となく毎日をあくせくと生きている私たちは、いったいどこに本当のものを求めたらいいのかということは、心ある人なら誰にとっても大切な問題である。
 実際問題として、われわれが生きているこの世界は、これから五十年、百年後どのようになっていくのか、予測する人は誰もいないであろう。ただ、どうにかなるだろうという予測だけで、あるいはそんな疑問もなく、毎日を過ごしている人も多いだろう。これではせっかく生まれてきた人生そのものが、余りにも荒唐無稽なものでしかない。みんなそう感じていることであろう。
 だからといって、こういう時代に生きているわれわれは、いったいどのように毎日を生きていけばよいのか、という切実な問いかけさえ、もう誰もしていないようにも見える。しかしお互い、本当にそんな生き方で満足できるのだろうか。
 そこで私たちにとっては、古人の言ったことをもう一度思い返してみることが、大きなヒントとなるのではないか。仏教を勉強してきた私など、しきりにそう思うのである。
 例えば表題の詩を読み返してみると、そこにはわれわれが長いあいだ気づかなかった尊い教えがあったことを今更のごとく教えられるのではないか。
 先日、招かれて久し振りに北海道に遊んだ。初夏の北海道はまさに新緑のシーズン。殊に登別あたりの山に入って行くと、白樺の林のなかに清らかな渓流のせせらぎが聞こえ、それこそ心洗われるような気がした。
 山の景色を仰ぐと、人間には近寄ることのできない地獄谷の山肌から、熱い温泉の煙がもくもくと湧き上がり、久し振りに人間存在の小ささを思い知らされた次第である。人間なんてまるで小さな存在でしかないのだ、と言う感慨をふたたび新たにした。