禅語

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魚行水濁鳥飛落毛 うおゆけばみずにごり とりとべばけおつ

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。 向上編』
(西村惠信著・2019.12 禅文化研究所刊)より

11月を表す季節の画像

見えない仏に出遇う歓び
―魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ―(『碧巌録』第二則、本則著語)

 趙州従諗(778~897)が門人たちに向かって、「至道無難、唯嫌揀択、纔に語言有れば是れ揀択、是れ明白」(究極の処はもともと少しも難しいものではない。それなのに、ああだこうだと言うのがいけないのだ)と言われた。この語はもともと、中国禅宗の第三祖と仰がれる僧璨鑑智禅師(?~606)が撰せられた『信心銘』という銘文の冒頭にある語である。趙州和尚はいきなりそれを持ち出されたのである。表題の語は例によって、それに対して圜悟が付けたコメントである。

 至道とは文字通り、「究極の実在」ということである。そういう実在は決して得難いものではなくて「ありきたりのもの」なのだ。ただそれをみんなは難しく考え過ぎて、あれかこれかと探して回っている。それがいけないわけなのだ、という意味である。私は子供の頃、本堂のお説教でこんな歌を知った。内容は古くさい。
  仏法は 障子の引き手 峰の松 火打ち袋に 鴬の声
というのである。子供の私には、どうして障子の引き手が仏法なのだろうと、自分で訳が分からなかった記憶がある。仏様の教えがそんなに当たり前のことだったら、わざわざこんな本堂でねむけ眼をこすりながらお説教など聴くことないじゃないか、と子供心にいぶかしく思ったものだ。
 ところが後年になって、難しい仏教学の勉強などするようになってから、昔聴いたそんな歌が懐かしく、そして仏教というものを、今更のごとく身近に感じることができるようになった。そうだ、とても自分には手の届かないと思っていた仏様の教えも、こんな凡俗にさえわかるように説かれてあったのだ、ということがわかったのである。
 仏法などというものは、崇高なもので、大空高く飛んでいる鳥のように、凡人には見えもしないものであるが、幸いその毛がこの地上に落ちてきて、自分たちにもその所在は窺えるというのである。
 深い川の底を泳いでいる魚は、岸辺にいるわれわれには到底見えもしない。しかし幸い魚が通った後から、濁った水が浮き上がってくるので、この辺りに魚がいるらしいぞ、という見当がつく。そうして漸くわれわれは、その辺りへ釣り糸を垂れたり、網を投げたりするのである。真実在はそのように、いつもわれわれの身近にあるという教えか。