「外からもらったものは、わが家の宝ではない」
―從門入者不是家珍―(『碧巌録』第五則)
生まれつき自分の中に具わっている持ち前を大いに発揮してこそ、大きな働きができるのだ」ということ。まず親から産みつけられている本来的な力がどういうものであるかを、自分自身の手で確認しなければならない。そして次にそれを現実生活の中で、大いに活用しなければ、せっかくの宝の意味がない。
「門より入る者、家珍に非ず」という禅語がある。どんな立派なものであれ、自分の外から持ちこまれたものは、いずれまた失われる日がくるであろう。われわれはそのような借り物に頼っていてはいけない。
貧しくても自分の中にもともと持っているもの、それは決して人に奪われたり見失ったりすることがない。それこそ本当の意味での「わが家宝」である。ではそういう宝が、この身体の中のどこにあるのか。それを探求するのが禅というものであろう。
背の高い人はそれが彼の宝であり、背の低い人には、背の低いということが彼の宝である。何故ならそれこそ誰にも奪われることのない事実であるからだ。他と比べるようなものではないから、「絶対」というのだ。対立を絶するということである。
自分だけの絶対的な価値に気づかず、たとえば背の低い人が背の高い人を羨ましく思ったとすれば、自分の絶対価値を放棄して、他と比べるような「自己の相対化」をしているに過ぎないのだ。
背の低い人はこのようにして、自分で勝手に劣等コンプレックスに陥り、背の高い人はこうして自分で傲慢な優越感で自分を見失う。これではいずれの場合も、自分の足が地につかないであろう。われわれはもっとよく自分だけが持つ絶対的価値に目覚め、自分を大事にしなければいけない、そうでないと折角のこの自分を惨めにするばかりであろう。
冒頭の禅語は、このことを逆に教えている。他人と比べることのできない、自分だけの絶対的な宝を大いに活用して、毎日をもっと伸び伸びと生きよというのである。