中国唐末の禅僧、長慶慧稜禅師が悟りを開いた時の心境を述べた偈があります。(『五灯会元』)
万象之中独露身(ばんしょうしちゅうどくろしん)
唯だ人自ら肯(うけが)って乃ち方(まさ)に親し
昔時(そのかみ) 謬(あやま)って途中に向かって覓(もと)む
今日(こんにち) 看来たれば火裡の氷(ひょう)
「万象之中独露身」は、「万象の中に独り身を露わす」と読むのではなく、一気に棒読みします。
長い苦しい修行の功で悟りを得てみると、この宇宙万象の中には、何物にも依存しない、何物にも執らわれない、玲瓏(れいろう)、玉の如き姿で堂々と独り身、即ち唯一絶対的に露呈しているものがある。しかし、それは他人からどうのこうのと教えてもらうものではなく、自分自身で真実、肯うところがなければ本物ではない。思えば自分は今まで色々と思慮分別にかかわり、余計なところに目を付けていたようだ。今、自分の得たものを「万象之中独露身」と云ってみたが、これも炎の中の氷のようなもので、実に頼りにならないというわけです。この頌以来、この「万象之中独露身」とは一体何ものなのかがやかましく云われるようになります。
臨済禅師の云う「無依の道人」「一無位の真人」とか、あるいは「自己本来の面目」「仏心仏性」、あるいは「天上天下唯我独尊」の当体、色々云われて来ています。皆、当を得ていると思われます。
この句は、よく「富士山」に喩えられますが、その方が理解し易いのではないでしょうか。北風の強い日など新幹線の車窓から見る富士山は、全容がくっきりと眼前に拡がり、卓然と聳え、まさにこの句を連想させずにはおきません。
大智禅師に「富士山」と題する偈頌があります。
魏然として独露す白雲の間
雪気誰人(たれひと)か寒を覚えざらん
八面都(すべ)て向背の処無し
空より突出して人に与えて看せしむ
群峰を抜き巍々然(ぎぎぜん)として聳え、まさに「万象(白雲の間)之中独露身」である。たちまち寒さを覚え、粛然として身を引き締めない者は一人もいない。ぐうたらぐうたら惰性で生きている者でも富士山を仰げば、誰人か寒さを覚えざらんや! である。四方、八方、どこから眺めても向背がない。向かって美しいという処もなく、背いて醜いという処もない。こちらから見ると眺めがよく、あちらから見ると眺めがわるいという向背がない。まさに露堂々(ろどうどう)と己を示している。富士は駿河と甲斐にまたがって空から突出して独坐している。独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)である。
私達は富士山のように天地イッパイ、宇宙イッパイに拡がって、露堂々と生きる事が出来れば、「万象之中独露身」に参じた事になるのではないでしょうか。