随処に主と作れば立処皆な真なり(『臨濟録』示衆)
今日の日本の憲法は、主権在民をうたっております。国家統治の権力が国民にあるというのは、すばらしいことです。天皇によらなくても、国民一人ひとりが日本を立派な国家に建設していきます、正しく治めていきます、発展させていきますという主権在民であるなら、まことに結構であります。
しかし、主権在民だから、われわれには権利がある、自由がある、何をしてもいいんだと、もしそう解釈する人がいたら、それはとんでもない考え違いだと、わたくしは思います。
臨済禅師は、「随処に主と作れば、立処皆な真なり」とおっしゃっております。どこへ行っても主になって、主体性を失うな、主人公になれ。そうすればその人の行動には間違いはない。こうはっきりと示しておられるのですが、これを、どこへ行っても自由に勝手なことをしてもよいというお言葉と解釈するなら、大変な間違いだと言わねばなりません。
「随処に主と作れ」とは、威張れということでもなければ、自由に勝手なことをせよということでもありません。どこへ行ってもその場所を愛せよということです。愛情を持てということなのであります。
たとえば、電車に乗っていて、これは自分の電車だと思うなら、紙屑一つ落とせんはずです。公園も俺のものだと思ったら、花一本折ることもできないでしょう。京都を俺の街だと思うなら、京都を愛さずにはいられません。それぞれの街を自分の故郷と思えるなら、その土地を愛さずにはいられません。日本は俺の国だと思ったら、日本を愛し大切にせずにはいられんはずです。そのように、すべてが自分だと思い、そこに愛情をもっていくならば、間違ったことなどできんと、臨済禅師は言われているのであります。
さらにまた、今日では公僕という言葉が使われておりますが、知事も公僕、市長も公僕、議員も公僕、役所の役人も職員もみな公僕で、主人はわれわれだと威張るのだったら、それも大きな間違いだと言わねばならんと思います。知事も市長も、確かに公僕でありますけれど、みなわれわれのために働いてくださっているのです。われわれに代わって市民のため、府民のために働いてくださっているのだから、われわれもまた公僕でなくてはならん。われわれの代表が市長であり、知事であり、国の政治家であると解釈するならば、国民一人ひとりも社会のため、人類のために奉仕していく。そういうことが主権在民でなければならん。それが、随処に主となるという臨済禅師の思想なのだと解釈していかねばならんと言えましょう。