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和光同塵 わこうどうじん

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より


03月を表す季節の画像

「光を和げて塵に同ずる」と訓読みできますが、「和光同塵」と音読みする方が禅的です。
この句は中国道教の祖、老子の『道徳経』第四章に「其の光を和げて其の塵に同ずる……」とあるのに始まります。
「和光」とは自分の持っている高い道徳的品性と秀れた才智の輝きを和げる、即ち、表に出さない事をいいます。「同」は同化の意で人を感化して自分と同じくさせる意。「塵」はちりやごみの事で汚れた現実の娑婆世界を指します。即ち聖人君子がその知徳を和げて、つまり隠して俗塵の世界に入って衆生済度する事をいうのです。
真実、禅の悟りに至った道人は学んだ法も、修した道も少しも表に出さず、悟りだの、迷いだの、仏だの、神だの、その影さえ見せず、馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのかさっぱり見当がつかない境涯で長屋の八つぁん、熊さんの手合いと同居して、人知れず衆生を教化済度してゆきます。その消息を「和光同塵」というわけです。この句が禅にとって重要な句である事は、「韜光晦跡――光をつつみ収めて跡を晦ます」「入鄽垂手――市街に出て手を下して済度する」「入泥入水――泥に入り、水に入るように済度する」等々、同義語が沢山ある事によっても頷けます。
「和光同塵」を地で行なった人物に「七福神」の一人布袋和尚がいます。七福神とは市井で福徳長寿の神として信仰されている「恵比須」「大黒天」「毘沙門天」「弁財天」「福禄寿」「寿老人」「布袋」を云いますが、その中で体が大きく、額は狭く、腹は太く垂れ下り、半裸で一本の杖を持って、大きな袋を背中に負った人物が布袋和尚です。元来この人は中国の後梁の時代の禅僧で、名は契此、明州奉化県の生まれで、九一六年、同地の嶽林寺で遷化(死亡)したと伝えられています。
背中の袋の中には身のまわりの物一切を入れ、履物も衣類も経本も食物もなにもかも一緒に入れて持ち歩き、市街に出て施されるものすべて喜んで貰う。食べ残りは袋の中に入れて貯えます。雨の日は草履で馳け歩き、天気になると木履でゆっくり歩き、休む時は袋を側より離さず膝を立てて眠ったと伝えられています。
人柄も天真爛漫で腹が減ったら袋の中のものを食べ、満腹になると所かまわず眠るといった居住不定で、悠々閑々灑々落々、名利を求めるわけでもなく、見識ぶるでもなく、威張るでもなく、誰に会ってもニコニコ笑うという「喜心」と、そのべんべんたる太鼓腹の「太心」と、欣々として優しい両眼の「愛心」とを以て接し、会った人は誰でも、自然に福徳円満な気持になり、人々は長汀子、また、布袋と呼び親しんだと云われています。この布袋さんの遊戯三昧の所、和光同塵の端的です。