禅語

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坐脱立亡 ざだつりゅうぼう

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

12月を表す季節の画像

あの世への旅立ち

―坐脱立亡―(『碧巌録』八十則)

「坐脱」は坐禅の姿で脱去すること。「立亡」は旅の装束を身に着けて、立ったままで死ぬことである。坐禅はまさに仏の姿であり、人間のなし得る最高の姿勢であろう。立亡はあの世に旅して、あの世の人を教化する意気込みである。禅僧の死を「遷化」というのは、「化をあの世へ遷す」の意味である。

 死者に旅の装束をさせる習慣は、仏教徒の慣いとして今も続いている。死が終わりではなくて、これから死出の旅路が始まるのである。
 『仏説十王経』という中国撰述の偽経には死後四十九日のプロセスが克明に説いてある。同趣のプロセスは、チベットやエジプトにも発見された『死者の書』にも見られ、これによってわれわれは、人間の持つ他界観念の普遍性を知るであろう。
 ところで禅僧たちが「坐脱立亡」などという突拍子もない芸当を見せるのは、禅僧が自分は死からさえ自由であるという、気概を示すデモンストレーションであろう。
 「隠峰倒化」という話がある。鄧隠峰という禅僧が弟子に向かって、「あちこちで禅僧が立って死んだり、坐禅して死んだりするそうだが、倒立して死んだ話を聞いたことがあるかい」と尋ねた。「そんなのは聞いたことがありません」と言うと、隠峰はさっと逆立ちをして死んだというのである。
 どんなことでも自由になるが、自分の死だけは閻魔さんの一存で、人間にはどうにもならないということは、古今東西の賢者が告白するところである。だから死が訪れたら、泰然自若として受けて立つことが、人間としては背水の陣である。
 それを義とせず、死までも自分の思うようにしようとしたのは、古代ギリシャのストア派の哲人たちであった。彼らは自殺することで死からさえ自由であろうとした。しかしこれは所詮、死に対する人間の敗北でしかない。禅僧のように死に臨んで、これを自分流に迎え入れる方が、より人間らしい自由のはたらきではあるまいか。