「雪竇(せっちょう)、此に到って頌し了わる。後頭に些子の眼目を著けて、一箇の無縫塔を琢出す。後に随って説いて道う、層落々、影団々。千古万古、人に与えて看せしむと。你、作麼生か看ん。即今、什麼の処にか在る。直饒(たとい)、你見得して分明なるも、也た錯って定盤星を認むること莫かれ」(『碧巌録』第18則「忠国師無縫塔」頌の評唱より)
雪竇が最後に締め括りをして、見ることのできないはずの無縫塔を、見性の眼をもって皆の前にいささか差し出して見せておられる。形のない姿のない、しかも十方世界に弥綸している無縫塔、本来の面目を、雪竇が心眼をもってここにうたっておられるのである。縦には三世を貫き、横には十方に弥綸して、千古万古、皆の前に、これが分からんかッとそびえておる、これが無縫塔だ。良寛はうたっておる。
形見とて何か残さむ春は花
夏ほととぎす秋はもみじ葉
良寛が死んでも残す物は何もない。本来無一物だ。良寛が死んだら一箇の無縫塔を残してやる。それは何か。春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉。全世界がそのまま良寛だ。春は花を残しておくから皆さんよくご覧なされ。夏にはほととぎすの鳴き声を残しておくから、良寛の形見だと思って聞きなされ。秋には全山一杯の紅葉を残しておくから皆さんよくご覧なされ。全宇宙が良寛だ。良寛はもうそこらにはおらんが、後に残った全世界がそのまま良寛だ。良寛はそう言って亡くなった。
層落々、影団々の無縫塔を皆はどう見るか。その層落々、影団々はいったいどこにあるか。無縫塔の真っただ中に自分がおるのであるから、どこにあるかと探しても分かるはずはない。目で見えるはずはない。我と世界とが一枚だなと分かったことが、無縫塔が分かったことだ。俺は富士山の上におるなと分かったことが、富士山を見たことだ。
定盤星は秤の目盛り。秤の分銅は品物の目方によって目盛りを動かねばならん。いつも同じ目盛りに分銅がぶら下がっておるということは、定盤星を認むるというて、一物にこだわることである。我と天地は一枚と分かることが無縫塔が分かることだが、その一枚のところにいつも坐り込んでおると、定盤星を認むるということになる。我と天地と一枚だと、いつもそこに尻を据えておることを一枚悟りというのである。本当の見性ではない。いつまでも無縫塔の中に尻を据えておると、それこそ墓場に坐り込んだ死人ではないか。棺桶の中で目玉をむいておるだけのことだ。そこを飛び出して、山あり川あり海あり、花あり鳥鳴き、一切衆生と共に寝つ起きつしていく世界がそこに開けて来なければならんはずである。