池に写る月のように清らかに
―吾が心は秋月に似たり、碧潭清くして皎潔―(『寒山詩』)
「自分の心は、まるで中秋の明月が、碧(あお)く澄んだ池に映っているように清らかである」ということ。その後に「私の心を何かに譬えようとしても比べる物がない。これをどのようにして人に伝えればよいのだろうか」と続く。
禅僧たちは今でもこの詩を、日常的に揮毫している。これを居室の床に掛ければ、部屋は一瞬にして寒山の世界となるからである。しかも寒山の詩は、単なる情景の描写ではなく、深い悟りの心境を自然に托して詩っている。
そうは言っても寒山は、ただ自分の心を表わすために、周りの世界を引き合いにしているのでもない。寒山にはそういう自我すらないからである。彼は鏡が世界を映すように、無心になって眼や耳などの感覚器官を通して入ってくる自然を受け入れ、それをその場その時の自己としているのである。
自分というものが先にあって、それが花や月を眺めるのではない。自分が鳥の声を聞いたり、雪を冷たいと感じるのではない。花や月がなかったらこの自分はないのだ。鳥の声や冷たい雪が自分を創ってくれているのである。
このように、普通われわれが自分と思っているものは、生まれてから今までの、すべての経験の束であると考えればよいであろう。
一人ひとりが人生で出会って経験してきたものは違っている。それが個性というものであろう。そうなると寒山のように、深い山に棲んで自然とだけ出会った人の心境を知ることは、凡人にとってほとんど不可能と言わねばならないであろう。