蓮の葉は円く、菱の実は鋭く
―荷葉団団として団きこと鏡に似たり。菱角尖尖として尖きこと錐に似たり―(『大慧語録』十)
「蓮の葉はまるで鏡のように円いし、菱の実の刺々しいことはまるで錐のようだ」ということ。「風、柳絮を吹けば毛毬走り、雨、梨花を打てば蛺蝶飛ぶ」と続く。それぞれが独自のあり方を示している。それが全体として美しい風景を織り成しているということ。
近ごろあらゆる面で「画一化」が進み、昔のようにそれぞれが個性を発揮することがなくなってきたように思う。田舎ではまだ、それぞれの家屋に個性があり、庭の植木にもその家の家風が現われている。都会では巨大なマンションが立ち並び、どこを見渡してもケーキのような形の建物ばかりである。
どの家の扉も同じで、違うのは家の番号だけである。せめて色でも違っていればよいのだが、これでは深夜ほろ酔いで帰ってきて、わが家を間違う人さえあるのではないか。中へ入っても、脱いである靴、立ててある傘、ゴルフの道具、吊るしてある暖簾など、何処の家も流行を追って、よく似たものばかりである。
「これでは家庭に個性が無い。どうしてそうなるかと言うと、一家の主に哲学が無いからだ」と言ったのは、若い日の石原慎太郎さんである。そう言われても、容易に一戸建ての家を持つことは、困難な時代であるからやむをえまい。しかしあまりファッションばかり追って、他所の家の真似ばかりしているのもどうであろうか。
そういえば今日、交通手段の進歩で、世界中に画一化が蔓延している。海外旅行のみやげ物を探しても、何処にでもあるようなものばかり。珍しい物を見つけたと喜んで買って帰ったら、ほとんどが中国製でがっかりした御仁も多いことであろう。
新幹線ができてから、日本という国も一色に塗りつぶされてしまった感がある。博多に雷おこしがあると思えば、東京に明太子があるというわけで、地方の特色を求めることもできなくなってしまった。大いに地方の村おこしが望まれるところである。