行(ぎょう)
什麼(なん)と道(い)うぞ。事(じ)生ぜり。夜眠り昼走り、放尿屙屎(ほうにょうあし)。行雲流水(こううんりゅうすい)、墜葉飛花(ついようひか)。擬議(ぎぎ)せば三塗地獄。然も恁麼地(いんもじ)なりと雖(いえど)も、一回白汗流れて親しく見徹するに非ずんば、大いに事有ること在らん。
手捉脚運(しゅしゃくきゃくうん)、惟(こ)れ什麼(なん)ぞ、
飢餐渇飲(きさんかついん)、作麼生(そもさん)。
箇の中若し一毫相を著けば、復た渾沌の為に眼睛(がんぜい)を剜(え)るならん。
自然の世界も無意識に動いておるじゃないか。行ずるなどと言わんでも、空の雲は自然に動いておるし、川の水は自然に流れておるじゃないか。秋になると木の葉が落ちるし、春になれば花が咲いて、散っていく。木の葉は行ずると思って落ちやせん。行ずると思って花は散りはせん。すべて自然じゃないか。腹が減ったら飯を食い、眠うなったら寝る、それでいいじゃないか。
道元禅師は中国から帰られた時、「当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞せられず。便乃(すなわ)ち空手にして郷に還る。所以(ゆえ)に一毫も仏法無し。……朝々日は東に出で、夜々月は西に沈む。……三年に一閏(じゅん)に逢い、鶏は五更に向かって啼く」と示されております。わしは中国へ行って、五年間も坐禅をして仏法の勉強してきたけれど、仏法なんてものは何もなかった。ただ、目は横に二つ並んでおり鼻は縦にある、これだけははっきり見てきた。誰が何と言ってもだまされん。太陽は毎朝東から出るし、月は毎晩西へ沈む。鶏は夜明けに鳴くし、三年に一ぺん閏年(うるうどし)がくる。ありのままの世界を、ありのままに見る。このこと以外に仏法なぞというものはなかった。道元禅師はそう示されたのでありますが、まさにそのとおり。自然法爾、あたりまえの世界をあたりまえに生きていく、それが仏法だ。