仏を超え、祖を越える
―仏を超え、祖を越える―(『伝灯録』十九、雲門文偃章)
悟りを超えて更にその上に別次元の世界があるということ。「向上の一路は千聖人も伝えず」といわれる超越の地平。悟りさえ超えようとする修行は、自分自身で拓く道であって、ここのところは祖師たちも教えないということ。
一般に宗教の世界においては、神や仏は信仰者が求める最高の存在であり、人間と世界がそれによって支えられる根拠である。にもかかわらず禅は、それをも超えて先に進まなければならない。仏を超え祖師を越えた処に、いったい何が在るのであろうか。
僧肇の『宝蔵論』に「万法一に帰す」という有名な一句がある。世界中に存在する個々のものは、究極的には「一」という真理に帰するというのが仏教の基本的教えである。禅宗も仏教の一派である以上、そういう教理に基づいている。
にもかかわらず禅者は、その「一」にさえ満足せず、さらにその「一」をも突破しようとし、「万法一に帰す、一いずれにか帰す」と問う。ただ一つの真理はいったい何処にあるのかという、更なる追求である。そういう質問に対して、たとえば趙州和尚は「私は青州におったとき、一枚の衣を作ったが、その重さは七斤だった」と答えている。
われわれは誰でも「真理は一つしかない」と考えている。真理がいくつもあっては、われわれはいったい何を頼りとして生きたらよいか分からなくなってしまうからである。
しかし、いったいその頼りとするたった一つの真理は何処にあるかと、改めて聞かれると、「真理はこれだ」といってつまみ上げるようなものは一つも見当たらないであろう。
同じように、仏壇に祀ってある仏は木仏・金仏に過ぎない。いったい本当の仏はどこにおられるのか。そういう問いを立てることが、「仏を超える」ということである。