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無縫塔見還難 むほうとうみることかえってかたし

『無文全集』第一巻「碧巖録Ⅰ」
(山田無文著・2003.12・禅文化研究所刊)より

09月を表す季節の画像

「無縫塔見還難」(『碧巌録』第18則 頌)

【頌】無縫塔、見ること還って難し

耽源の詩にはふれずに、雪竇は雪竇の無縫塔をうたっておられるのである。上は三十三天の頂から、下は奈落のドン底までブチ抜いておる墓だ。縦には三世を貫き、横には十方に弥綸しておる墓だ。全宇宙がそのまま墓だ。忠国師はそう言われた。そうに違いない。何もチッポケな墓を建てる必要はない、大宇宙がそのまま墓だ。
(中略)
忠国師が言われた無縫塔とはどんな形であるか。肉眼で見ようとしたらなかなか見えるものではない。あまりにも大きすぎて見えるものではない。建てることもできなければ、潰すこともできないのが無縫塔だ。

【頌の評唱】雪竇、当頭に道う、無縫塔、見ること還って難しと。然も独露して私無しと雖も、則ち是れ見んと要する時、還って難し

雪竇は、詩の冒頭でうたって言う、「無縫塔、見ること還って難し」と。忠国師は、「老僧が与に箇の無縫塔を作れ」と言われたが、その無縫塔はなかなか見ることができんものだ、と。富士山の外におるから富士山が分かるが、富士山の中へもぐり込んだら富士山は見えんはずである。富士山の中に自分がおるのだから見えるはずはない。しかし、富士山があることは確かだ。天地と我と一枚だから、見ること還って難し、だ。無縫塔は厳然としてそびえておるが、もちろんそこには私はない。自我はない、私が無縫塔でありますというものもない。いわゆる精神もない、独露だ。物でもない精神でもない、絶対だから独露だ。自ら富士山の山の上におることを自覚するより仕方がない。我と富士山が一体だと自覚するより仕方がない。それ以外に富士山を見るわけにはいかん。