流星や稲妻のように素早くあれ
―眼は流星に似て、機は掣電の如し―(『碧巌録』二十四)
相手を見て取る眼力ときたら、流れ星のように素早い。それを態度に示すはたらきもまた稲妻のように一瞬に発揮される。原文では、「譬えそのようなはたらきができても、まだまだ誰かに尻尾を掴まれるぞ」と追い打ちをかけている。
『論語』の「公冶長」に、孔子が、「顔回は一を聞いて、以て十を知る、子貢は一を聞いて、以て二を知る」と言われたとある。『荀子』の「非相」にも、「近きを以て遠きを知り、一を以て万を知り、微を以て明を知る」というのがある。いずれも知ることの素早いことをいうのであろう。
『荘子』の「天地」には、孔子がある弟子を批判して、彼は「其の一を知って其の二を知らず、其の内を治めて、其の外を治めず」とも教えている。これは余程気の効かない弟子を指していったものであろう。
禅は知識の問題ではなくて、機敏なはたらきを求めるから、一を聞いて十が分かっただけでは駄目である。状況を察知したら、即座に行動が伴わなければならないのである。
禅では頭よりも「眼」が大事なのだと教える。一見弁見、流れ星のように素早く見てとる眼力を養わなければ、人間は使い物にならないからである。もし、しっかりした眼を持った人間なら、とうぜん素早い動きが伴うものだ。
よく見る眼をもたないものが軽率に動くと「盲動」に走ってしまうから、これも始末が悪いことになるであろう。