「鏡清雨滴声」(『碧巖録』第46則)
【本則】鏡清、僧に問う、門外是れ什麼の声ぞ。僧云く、雨滴声。清云く、衆生顚倒して、己れに迷うて物を逐う。僧云く、和尚作麼生。清云く、洎ど己れに迷わず。僧云く、洎ど己れに迷わずと、意旨如何。清云く、出身は猶お易かる可し、脱体に道うことは応に難かるべし。
鏡清の道怤和尚がある時、雲水に尋ねられた。
「門外是れ什麼の声ぞ――今、庭先で音がしておるが、あれは何の音じゃナ」
「雨滴声――雨垂れの音でござります」
すると鏡清が言われるのに、
「衆生顚倒して、己れに迷うて物を逐う――皆な心が迷うて、自己を忘れて物にとらわれている。自己を忘却して客観の世界にとらわれてしまう」
これは首楞厳経にある言葉を分かりやすく言われたものである。皆な頭が顚倒しておる。自己というものを忘れて、とかく物を追い掛けて、物にとらわれておる。物が大事なのか、己れが大事なのか。人生は己れの命が大切なのか、酒が大切なのか。金が大切なのか。酒の好きなやつは酒を追い回して命を失ってしまう。煙草が悪いと承知しながらやめられん。金や銭儲けよりも人生そのものの方が尊いはずだが、その尊い人生を金や名誉に追われて無駄にしてしまう。そういうのを顚倒というのである。
「門外是れ什麼の声ぞ」「雨滴声」。聞いておる自分はどこにあるのじゃ。自分が聞かなんだら、雨垂れの音はないではないか。雨垂れを聞いておる自分は何か。「雨滴声」と言うておるそいつは何じゃ。鏡清がそういう注意をされたのである。すると、僧が言うのに、
「和尚作麼生――それならば、和尚はいかがですかナ。雨垂れの音と言うたのが悪かったのなら、和尚さんは何と聞きますかナ」
「洎んど己れに迷わず――俺か、俺は自分を見失うようなことは滅多にせんゾ。俺はどんな場合でも自分を見失うようなことはせんゾ」
「洎んど己れに迷わずと、意旨如何――どんな場合にも己れを失わんとしたら、どういうことになりますか。どういう場合にも主体性を失わんとしたら、どういうことになりますかナ」
「出身は猶お易かる可し、脱体に道うことは応に難かるべし」
物にとらわれないということは誰でもできる。難しいことではない。雨垂れの音と、聞いておる我とは別物ではない。聞く我と聞かれる雨垂れとは二つではない。我が聞くから雨垂れが鳴り、雨垂れが鳴るから我が聞くのである。雨垂れと我とは二つではない。不二である。その不二の境地を口で言うということ、これは難しい。不二の世界を丸ごと表現するということは、なかなか難しいことじゃ。物にとらわれんということは誰でもできる。物と我とは別物ではないというその境地において、そこを表現するということは難しいことだ。そこを表現していくというのが禅というものじゃ。そう言うて鏡清和尚は示されたというのである。