擧。僧問大龍色身敗壞如何是堅固法身。龍云山花開似錦澗水湛如藍。(『碧巖録』第82則【本則】)
挙す。僧、大龍に問う、色身は敗壊す、如何なるか是れ堅固法身。龍云く、山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。
大龍山の智洪弘済禅師は徳山の曾孫弟子になる人である。その大龍和尚に、ある時、雲水が尋ねて言うのには、
「色身は敗壊す、如何なるか是れ堅固法身」
色身はこのお互いの肉体である。この肉体はやがて呼吸が止まり、脈が止まり、火葬にすれば灰になり、土葬にすれば腐ってただれて、結局はなくなっていく。すべて無常な世の中だ。
「われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。あわれというもなかなかおろかなり」。生まれたものは必ず死んで行かなければならん。逢うたものは必ず別れなければならん。できたものは必ず壊れなければならん。永遠なものは何もない。その無常を感じ、永遠なるものを求めてお釈迦さまは出家をされ、山の中に入って六年の間、難行苦行をされ、悟りを開かれたのである。不生不滅、生まれもしなければ死にもしない。不垢不浄、汚れもしなければきれいにもならん。不増不減、増えもしなければ減りもしない。そういう堅固法身を悟られ、永遠不滅なる生命を自覚された。これが仏法である。
色身は敗壊す、如何なるか是れ堅固法身――この身体はやがて腐ってなくなりますが、永遠不滅なる生命はどこにありますか。こう言って僧が尋ねたのである。これも竿頭の糸線であろうか。すると大龍和尚が答えて言われるのには、
「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」
嵐山か吉野山か、桜の花が咲いて、山一面の錦。不生不滅、不垢不浄だ。その一面の錦、そこが法身か。そこが堅固法身か。谷川が真っ青に水を湛えて、波も立たない、ビリッとも動かない。そこが永遠であろうか。山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。大龍和尚はそう答えられた。これが格外の機であろうか。これが竿頭の糸線であろうか。この僧、果たして分かったか、どうか。
山花開いて錦に似たり。桜の花が満開で、全山錦を広げたように美しい。いかにも永遠の美しさだ。その永遠の美しさを現わしておる花も、「三日見ぬ間の桜かな」だ。風が吹けばひとたまりもなく散ってしまう。澗水湛えて藍の如し。真っ青に湛えて波一つ立てない、谷川の淵の水。いかにも永遠の生命の如くであるが、水は滾々と流れ、同じ水がじっとしてはおらん。風が吹けばたちまち散っていく、もっとも命の短い桜の花の刹那の中に、そこに永遠を発見しなければならん。滾々と流れて止まん谷川の水の中に、流れない永遠を発見しなければならん。やがて、消えてなくなるお互いのこの肉身、この身体、この無常の身体の真っただ中に永遠を発見しなければならん。刹那の中に永遠の時間を味わっていかなければならん。個の中に絶対の法身を発見していかなければならん。刹那を離れて永遠はなく、個を離れて全体はない。これがまさに仏教の深淵なる哲学だ。
しかしそういう理屈でなく、哲学ではなく、目の前の景色でもって、「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」と答えられているのである。大龍という和尚、まさに格外のはたらきだ。こういう言葉が即座に口をついて出て来る、そういう大龍和尚の素晴らしい境界だ。ただ黙々と坐禅しただけでは出て来ん。かと言うて頭で考えただけでも出て来ん。定慧不二、動かない禅定力があって、しかも眼を開いて達観すれば、無常な身体がこのまま永遠の法身である。「無明の実性即仏性、幻化の空身即法身」。寒いといい、暑いといい、嬉しいといい、悲しいというこの煩悩が、そのまま仏心だ。風邪をひいたといい、腹が減ったといい、くたびれたというこの肉体がそのまま、堅固法身、毘盧遮那仏でなければならん。山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。境界といい、表現といい、実に大龍和尚、まさに格外の機を示されておるのである。