悟りを超えた世界
―悟り了らば未だ悟らざるに同じ―(『伝灯録』一、提多迦章)
悟ったといっても、それによってこの世界が特に変わるわけではない。悟りの世界も、悟る前の世界と同じである。ただ、世界は初めからこういうものであったのだ、という事実に肯くだけのことである。
「大悟徹底」という禅語がある。ところでここにいう大悟の、「大」という字に注目する必要があるのだ。「大」ということは、凡人の悟りよりももっと大きな悟り、というような「量的」な大きさではあるまい。そうではなくて、「悟りが悟りでさえなくなるほどの悟り」といった方が適切であろう。
つまり、悟りとか迷いというように価値を二分していう悟りは、いわば迷いとの相対的な悟りなのだ。もとよりそれこそ、われわれの求める悟りの素直な解釈であり、人はそういう悟りが得たくて、苦しい修行をするのであるから。
ところが「大悟」となると、迷いの立場からの理想としての悟りではなく、それは迷いも悟りも、ともに包み込んでしまうような超越的な悟りである。そこではもはや迷いと別の悟りはなく、迷いさえもいっしょに包みこむような悟りである。
「大愚良寛」などと言う場合の「大」もまた同じであろう。それはいわゆる賢に対する愚かさではない。そういう愚かさをも突き破ったような愚かさであって、賢と愚を包み込んだ「大愚」であるから、凡人の眼には測り知れない愚かさである。
こうして大悟はそのまま大愚にも通じるであろう。人はよく、「あの人は悟っている」といって尊敬する。しかしわれわれ凡人に見えるような悟りは、まだ本当の悟りではないのだ。凡人の物差しでも測れるような悟りならば、まだ本当の悟りではないであろう。
「大功は拙なるがごとし」(『碧巌録』第百則)という。愚か賢かの区別さえつかない良寛のような人こそ、もって恐るべしである。