生死の苦しみから脱却できるか
―生死の中に仏なければ生死無し、生死の中に仏あれば生死に惑わず―(『伝灯録』大梅法常章)
仏陀によれば、生死についての迷いは、人間にとっての根本的な苦悩である。したがって生死の苦しみからの脱却が、人間にとってのもっとも根本的な課題になるのは当然である。仏教では人間を生死の苦しみから救うのは、仏であると説いている。しかし禅宗は自力の宗教であるから、仏に頼ることを嫌う。冒頭の問答は生死の中に仏がある方がいいか、無い方がいいかを巡る議論である。
「生死」と迷いとは同じ意味である。古代インドより、生き物が生まれたり死んだりすることの繰り返しを「生死輪廻」といい、これが生きるものすべてに共通する苦しみとした。古代バラモン教ではこの苦しみの輪から脱却して、死後に天に生まれることを理想としてヨガの行に励んだのである。
ところが仏陀は伝統的なバラモンの教えに従わず、みずから悟りの智慧による生死解脱の道を説いた。彼は、生死の苦しみから逃げようとする代わりに、生死の苦しみの真っ只中で生死を脱却する智慧を説いたのである。
これが大乗仏教の説く「生死がそのまま涅槃である」という教えである。わが道元も「是の生死はすなはち仏のおんいのちなり」(『正法眼藏』生死)と説き、もし生死を厭うなら、仏のいのちさえ失うことになると教えている。
そうかといって生死の中に留まっておれば、この場合もまた仏のいのちを失うことになるという。苦しみの中で苦しみを脱却すること、これはなかなか難しい手段である。
われわれ凡人の生活においても、しばしば解決し難い困難に出会うものだ。「どうしてもどうにもならないときどうするか」こそ、われわれ人間に与えられた基本的公案であると、禅の思想家久松真一博士は教えている。
人生途上においては、しばしば避けて通れない困難に遭遇する。その場合、他からの救済を願うのも一つの方法に違いない。しかし他力は当てにならない。他人に依存せず、自力で難局を突破する方法もある。そのいずれも容易なことではない。
ただ今日よくあるように、会社の破産宣告を喰らって逃亡するとか、家人を道連れにして一家心中を図るとかいう方法は、安易で卑怯な苦境からの脱却であり、反社会的で反人道的で許されることではないであろう。