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身是菩提樹、心如明鏡臺 みはこれぼだいじゅ、こころはみょうきょうだいのごとし

『無文全集』第6巻「六祖壇経」
(山田無文著・2004.1 禅文化研究所)より

07月を表す季節の画像

 偈に曰く、身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時々に勤めて払拭(ほっしき)して、塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむること勿かれ
これは今日、六祖の詩に較べてつまらない詩だと、非常に劣っておるように皆が申すのでありますが、これはなかなか立派な詩だと私は思うのであります。この詩のとおりに修行をすれば、確かに悟りが開けるわけであります。
 「身は是れ菩提樹」、お互いの体は悟りの樹だ、悟りの花を開く大事な菩提の樹である。お互いはこの体というものを大切にしなければならんわけであります。命というものを大切にしなければならんわけです。しかも、「心は明鏡台の如し」、心は鏡のような美しいものである。心は本来、明鏡のようなきれいなものである。そのとおりだと思うのであります。私どもがお話をいたすのにも、このとおりに申すのであります。
 先日も山陰の方へまいりましたら、青年が是非とも座談会をしてくれと言うので行ってみますと、いろんな質問が出ました。その中に、「有り難いということはどういうことですか。有り難い、有り難いと私どもは申しますが、有り難いとはどういうことですか」と、こういう質問があったのであります。有り難いという言葉は、仏教の言葉だと私は思うのであります。『法華経』の中にも「有り難し」という言葉はあります。『法句経』などにも、「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し、正法を耳にするは難し、諸仏の出世に会うこともまた有り難し」という言葉があります。有り難いということを普段使いますが、多くの場合、物をいただいた時、「ありがとうございます」と申します。自分の生活の上に何かがいただけた時に有り難いと申すのであります。物が「有り難い」ということは、「滅多にない」ということであります。滅多にないものは有り難いのであります。戦争中でありましたら薩摩薯(さつまいも)一ついただいても有り難い、米一升いただいても貴重品だ、有り難い。物が有り難いということは、物が少ない時に有り難いのである。今日のように物が出廻ってきますというと、物がちっとも有り難くなくなる。
 鈴木大拙博士がよく言われるのでありますが、「アメリカへ行って一番困るのは、まったく物が多すぎて、われわれには勿体なくてかなわん。われわれのように日本の禅宗の教育を受けた者は、物が勿体なくてかなわん。買い物に行けば大きな紙に包んでくれて袋に入れてくれるが、そういう物を取っておけば邪魔になるし捨てんならんが、勿体なくてかなわん。そういう物を処置するだけでも、また人を頼まんならん。そうして物はどんどん使っていかんというと生産者が困る。どんどん使っていかにゃいかん。禅宗の教育みたいに包んであるものの紐をきれいに丁寧にほどいて、それをからげて取っておく、包み紙はしわを伸ばして取っておく。そういうことなんぞしておったら物が余って困る。どんどん使わんことには生産者が困る。消費するほど生産者が助かるのだから、消費しなくちゃいかん。そういう生活はわれわれにはどうもぴったりせん」ということを言われております。物が豊かになればなるほど、物はちっとも有り難くなくなる。
 お経には有り難いという言葉は使ってありますが、これは決して物には使っていない、物が有り難いなんて書いていない。「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し」、有り難いというのは人間に生まれたこと、今日生きておることが有り難い、命だけは有り難い。これはどんなに物質が豊かになってもそのとおりだ。アメリカだってそうだ。命というものは一つしかないのであります。かけがえのないものであります。無常迅速である。この命だけは有り難い、二度とない、滅多にない。「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し」、その命が有り難いだけでなくして、この命が本当に生きていく、本当の人生を生きていく道を教えてもらうということが有り難い。「正法を耳にするは難し、諸仏の出世に会うこともまた有り難し」、そこで仏法の方で有り難いということは、法が聴けるということが有り難いのだ。法を体得した仏、自覚者に会えるということ、仏法を聴けるということ、法の体得者に会えるということが有り難いことだと。まさにそのとおりであります。
 そこで、「身は是れ菩提樹」でありますから、体は悟りの花を開く樹である。命あって初めて悟りが開けるのであります。この命というもの、体というものはまさに菩提の樹であって、これは大切にしなければならんものである。しかも「心は明鏡台の如し」。これはもう私どもが始終申し上げることで、われわれの本性というものは鏡のようなものだ、一点の曇りのない大円鏡智という大きな円い鏡のような智慧、そういうものがわれわれの本性である。鏡のようなきれいな心が本性である。経験以前、知識以前の心というものは鏡のように何にもないものだ。自性清浄心であります。人間の本性は清浄無垢だ。あるいは中国の言葉で申しますならば、聖人の心は明鏡止水(めいきょうしすい)だ。きれいな鏡の曇りなきがごとく、池の水が澄んで波が立たんような澄みきったものが聖人の心であります。日本の神という言葉、神さまの神という言葉も鏡がつまって神になったと申すのでありますから、神さまも鏡のような心である。「此の宝鏡を視(み)まさんこと、当(まさ)に吾れを視るが猶(ごと)くすべし」と天照大神は御孫、に鏡を渡されたと申しますが、それはこの鏡が私の持っておった記念の品だという意味ではなくして、鏡のごとく曇りのない心が神の心だぞと、こうお示しになったものだと受け取れるのであります。御神前にはどこでも鏡が供えてありますが、「心は明鏡台の如し」、われわれの生まれたままの心は鏡のごとく清浄無垢なものであります。その鏡のような清浄無垢な心に雲がかかると、塵(ごみ)がかかるとその鏡が現われないのだ。その鏡の光が現われないのだ。妄想の雲がかかって煩悩の塵がかかり、そうして心を晦(くら)ましておりますから、そこで、「時々に勤めて払拭して、塵埃をして惹かしむること勿かれ」、常にその塵を払い、埃を払い、曇りを拭(ぬぐ)い、そうして塵や埃がその心の本性にかからんように努力していかにゃいかん。坐禅をするということは、その塵を払うことである。念仏を唱えるということはその曇りを拭うことである。そうして、いつも本来の清浄無垢な鏡のような心で、毎日、日暮らしをしなければならんと、こう示されておるのでありますから、これは決して悪い詩ではなくして、大変結構な詩であります。