禅宗の、と言っては語弊がありますが、仏法の開祖はお釈迦さまであります。釈迦牟尼世尊であります。釈迦牟尼から二十八代目の祖師を菩提達磨大師と申し上げます。この方がインドから中国へ渡られまして、中国の第一祖となられました。達磨大師から六代目の祖師を、慧能大鑑禅師と申し上げ、通常、六祖大師の名で通っておられます。
六祖は、もと南方の百姓の青年で、山へ行って薪を伐り、市へ出ては売って、母親を養いながら生活していました。一日、薪を持って客の家へまいりまして、お代をいただくのを待っていました。すると、家の中にお経を誦んでいる人がありまして、聞くともなしに聞いていると、その中に「応無所住而生其心(応に住する所無うして、而も其の心を生ずべし)」という一節がありました。因縁が熟したと申しましょうか、その一語を聞くと、忽然として悟りを開いてしまいました。後に客の世話で、五祖弘忍禅師にお目にかかり、仏祖伝来の大法を受けついで、六代目の祖師になられたのであります。
この六祖大師が、「坐禅」ということを定義して、「外、一切善悪の境界に於いて、心念起こらざるを名づけて坐と為す。内、自性を見て、動ぜざるを名づけて禅と為す」と言っておられます。「私どもの意識が、外面的には、世界の一切万象に向かって、いいとか悪いとか、美しいとか汚いとか、あるとかないとか、迷いだとか悟りだとか、罪だとか救いだとか、損だとか得だとかいうような、差別的分別の起こらないのが、坐ということである。それから、内面的には、意識が意識自らの本質を自覚し、その絶対無ともいうべき本質を踏みはずさないことが、禅ということである」と言っておられるのであります。坐禅を、形式的に批判せずに、実質的に把握された、尊いお言葉だと思います。
そこで、坐ということは、何も思うまいと努力することではなくして、何も思うことがなくなった境地であります。禅とは、心を動かすまいと骨折ることではなくして、よく飼いなれた犬がどこへも行かないように、心が本性を離れないことであります。「坐って静かに思う」とは、こうした罣礙なき、透徹した境地に入ることでありまして、これを「安楽の法門」と申すのであります。ところで、何も思わぬがよい、心を動かさぬがよいと申しますと、じきに早合点をして、石のごとく木のごとく無感覚になることだと誤解されやすいと思います。
昔、伊達政宗公が茶碗の名器を手に入れて愛玩されていました。一日、それを手にしてしみじみ鑑賞していましたが、フト手をすべらせて、もう少しで落とすところでありました。その時、政宗は、「しまった」と心に感じました。茶碗は幸いにして割れなかったが、政宗の「心」が割れました。「かつて千軍万馬の間を往来しても動かなかった心が、茶碗一つぐらいに動いたとはいかにも恥ずかしい」と言って、彼はその茶碗を庭石に投げつけて、ホントに割ってしまったということであります。千軍万馬の間を往来しても心を動かさぬということが武士の心構えであり、坐禅の極致でありますが、それは石や木のごとく無感覚になることではありません。無感覚になったのでは、千軍万馬の中を生きて往来することは到底できません。
ここで、沢庵禅師が但馬守に示された言葉を思い起こしましょう。
「不動と申し候いても、石か木かのように無性なる義理にてはなく候。向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ、心は動きたきように動きながら、も止まらぬ心を不動智と申し候」
四方八方に動きながら、しかもどこにもどどまらぬ心、それが不動智だと言われております。これをわかりやすく譬えて申しますと、京都の四条通りを自転車に乗って走るようなものであります。あの雑踏のさなかを、衝突せずに無事に乗りきるには、電車、バス、トラック、タクシー、オートバイ、他の自転車、横断者、あらゆるものに気をくばりながら、同時に何もかも忘れていかなければなりません。この、四方八方に動きながら、しかもどこにもとどまらぬ心、これを不動智と言うのであります。「応に住する所無うして、而も其の心を生ずべし」とは、このことであります。
草や木は常に新鮮な水分を吸収して、常にみずみずしい芽や葉を輝かせています。そして、美しい花を咲かせます。その陰には、休みなき新陳代謝の営みのあることを忘れてはなりません。あの淙々として流れてやまぬ川の水は、二度と再びもとの岸を洗いません。万物は常に自己を否定しながら、常に新しい自己を建設していくものであります。そこには生もなく死もなく、美しい生命の流れがあるばかりであります。これが自然界の原則であります。しかるに、もの思う葦と言われる人間のみが、楽しみにあえば楽しみにおぼれ、悲しみにあえば悲しみにやぶれ、永久に消えぬ愛着と悔恨に沈む。これらはすべて、あわれむべき心の病であります。
日に新たに、日々に新たに、また日に新たに、念々新しい意識をもって、念々輝かしく、たくましく人生を生きていくことが人間本然の姿でなければなりません。笑う時には芯から笑い、泣く時には芯から泣き、怒る時には徹底怒る。しかも念々忘却の淵にミソギして生きられるならば、日々是れ好日であります。動かぬと言えば、上は三十三天の頂から下は奈落のドン底まで徹して動かぬ心、動くと言えば、三世を貫き十方世界に弥綸して自在に動く心、つまり、動くことが動かぬことであり、動かぬことが動くことである。かかる、とらわれもなく、こだわりもない、自由な心を会得することを、「坐禅」というのであります。
禅語
応無所住而生其心 まさにじゅうするところなくしてそのこころをしょうずべし
『無文全集』第13巻「三分間法話」
(山田無文著・2004.3 禅文化研究所)より