禅語

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腦門上播紅旗、耳背後輪雙劍 のうもんじょうにこうきをはためかせ
じはいごにそうけんをまわす

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

12月を表す季節の画像

将軍が戦場に赴くように

  
―脳門上に紅旗を播せ、耳背後に双剣を輪す―(『碧巌録』三十七則)

 大将軍が戦いを挑んで頭の上に旗を立て、耳の後ろから剣を覗かせながら、敵の陣中に乗り込んで行く様をいう。われわれもまたこのような勢いで、自己の信念を旗として振りかざし、「世間という修羅場」に臨まなければなるまい。そうすれば大概の連中は、思わず尻込みをするであろう。
 禅修行の目的は悟りを得るにあるが、悟りの力を日常生活において、いかに発揮するかは、もっと大事な課題である。いくら悟りを得たといっても、ただ自分ひとり満足していたのでは、大乗仏教の徒としては失格であろう。
 だから一人前の禅僧となったものはまた、自家の宝を引っ提げて他家に赴き、互いに火花を散らして悟境を深め合う。これを「法戦」と言い、勝つか負けるかは禅僧にとって生死の境となる。
 自信を得た彼らは、自分が天下の大導師であることを世界に向かって公表し、これを聞いてやってくる修行者たちを指導するのを使命とする。
 こうして禅僧たちは師と師、師と弟子、弟子と弟子のあいだで、互いに切磋琢磨する。これがいわゆる禅の「問答」であり、「商量」である。もとよりこれは主義主張の争いではない。人生の真実や、世界の真相を見極めようとする者同士の、真剣勝負なのである。問答に敗北したものにとっては、それがまた深い悔悟となって、更なる精進修行へと向かう契機となるのである。
 われわれも日常生活の中で、親と子供、あるいは子供同士のあいだに、もっと互いを磨き合えるような、厳しい接触があるべきではないか。テレビで大相撲など観ていると、あのがっぷり四つに組んだ男同士の接触には、遠く離れて互いに球を打ち合うテニスの試合とはまるで質の違った、「人間的訓練」の実際を見るような気がするのである。