仏が無ければ凡夫も無い
―本来無一物―(『六祖壇経』)
「この身体は菩提樹、心は明るい鏡のようなもの。常に拭き清めて塵の溜らぬようにせよ」とトップクラスの神秀上座が言う。これを聞いた寺男の盧行者(後の六祖慧能)は「身体も心もそのように立派なものではない。もともと実体など無い(本来無一物)のだ。どうして無いものの上に塵の溜ることがあろう」と、自分の心境を吐露した偈の一句。
「本来無一物」という語は、誰でも知っている禅の代表的な言葉である。誰でも知っているけれど、ほんとうに分かっているかどうかは、まったく別であろう。普通には、「もともと何も無い」というように理解されやすい。
しかしこの「本来」という語は、もともとという意味ではなく、「本質的に」とか、「根源的に」ということである。また「無一物」は何も無いということではない。
禅宗で言う「無」は大乗仏教の説く「真空」の中国版で、有と無の両方を超えた次元を意味しているのである。したがって「本来無一物」もまた、有も無もそこから出てくるような「根源」をいうのである。
われわれの身体や心もまた、そういう「一切を超えた根源」から現われ出ているものであるから、それを「清浄なもの」だと考え、煩悩のような「不浄なもの」を避けようとするのは、「小乗仏教的」な二元論に過ぎないのである。
大乗仏教では、「清」も「濁」も、ともに根源の「空」の現われ方の違いであるとする。だから清と濁、善と悪というように、分別してしまうのは、真実についての誤った理解で、それを迷いというのである。なるほど清らかな処に塵が溜るなら払わなければならないが、何にもなければ塵も溜らないというのが、大乗仏教の尊い考え方である。
清も濁も同じ「空」の現われであるから、両者は同じ価値である。それを差別することが迷いである。「悟りは迷いの道に咲く花である」という句は、それを言うのであろう。