わが家に帰って寛ぐとき
―帰家穏坐―(『碧巌録』十四則)
ほんらいいるべき家を「本分の家郷」という。諸国行脚の遠い旅から帰ってみれば、もともとそこは悟りの世界であったのだ。窓辺に坐って外の世界を眺めると、ようやく陽は西の山に傾いている。
重いケースを引っ張って海外旅行から帰国し、やっとの思いで辿り着いたわが家。まずひと風呂浴びてから、美味い日本のビールを飲むとき、これこそ「帰家穏坐」というものかと、誰人もひとしなみに実感することであろう。
仏道を求めて長い修行生活を送った人にとって、ようやく辿り着いた悟りの世界は、これこそ自分が住むべき本来の家であったのかと、穏やかに坐して行脚の脚を休め、心安らぐのを覚えるであろう。
それはまた、雨の降る日も風の吹く日も、暑い夏の日も寒い冬の日も、家族を守るためにせっせと職場に通った人が、定年を迎えてわが家での悠々自適の生活に戻ったような心境に比することもできよう。
また、「本分の家郷」というのは、自分が落ち着くべき「場所としての家」というだけではない。むしろ誰もが手にしたいと思う「平安な心の状態」でもあるだろう。職場では重い責任を担っていた人が、さまざまな責任から解放されて、独り静かに心を自分に向ける「余裕の時間」でもあるだろう。
ほかでもない、私自身がいまそれを実感しているのだ。人生という旅路をイメージすれば、「本分の家郷」に帰るということは、七十年という回路をへて、また誕生の日へと帰っていくことであり、それはこの「人生の終焉の時」でもあろう。
ちょうど天に向かって投げた石が、ふたたび地上に落ちてくるようなものだ。待ち受けているのは大地という、穏やかな母の懐なのだ。