機が熟すということ
―月は中秋に到って満ち、風は八月に従って涼し―(『宏智広録』一)
南宋の禅僧宏智正覚は、「自分は趙州和尚のお蔭で、眼の中にあった金屑を取り出してもらい、鼻の頭についていた泥痕を取ってもらった」と述懐したあとで、その心境を冒頭の句で述べたのである。何事も時期が来てこそ熟すということ。
デンマークの実存思想家キェルケゴールは、「真のクリスチャン」となることを生涯の課題とし憂愁と孤独のうちに深い思索を続けた。その結果が彼の到達した実存思想であり、この思想に基づく独自の「信仰」に達した。
ところで彼はその著『哲学的断片』の中で、「時の充実」ということを述べている。時の充実とは永遠が時間のなかへ突入する「瞬間」だという。永遠と時間が一つになるということは、ふつうならあり得ないことであり、「絶対的な逆説」である。そして人間のパッションというものはこのような不条理(逆説)に直面したときにこそ燃えるものだと言うのである。
ところでナザレのイエスこそ、「永遠」なる神が「時間」の世界に降りたのであるから、これこそ「瞬間」の具体的な例であり、キリスト教の信仰は、そういう瞬間において決定的になるものだという。
それはちょうどやかんで水を温めていくと、水は次第に熱くなり、ある瞬間に沸騰して蒸気となるような変化の瞬間である。この変化は液体から気体への質的変化である。
さて、われわれも人生の途上において、ある決定的な「瞬間」があって欲しいものだ。その瞬間において、それ以前の自分と、その後の自分とが決定的に質の違ったものになるような変化である。
徳川の中頃、駿河の国の庵原に平四郎という人があった。彼は滝壺から下手へ流れる泡がどれもやがては消えてしまうのを見て無常を感じ、帰宅して風呂に閉じこもって終夜坐禅を組んだ。しばらく意識を失っていた平四郎は、朝、雀の鳴く声で我に返り、思わず悟りの歓びを得た。人生の質が瞬間において変わるということの、仏教的例であろうか。