水流の上で手毬を撞くように
急水上に毬子を打す―(『碧巌録』第八十則)
ある僧が趙州に向かって、「生まれたばかりの赤ん坊にも意識というものがあるでしょうか」と尋ねると、趙州が、「急流の上で手毬を撞くようなものさ」と答えた。赤ん坊にそれができるとは、いったい如何なることか。
急流の上で手毬を打つということは、およそ不可能なことである。可能であるとしても、尋常の素早さではできないであろう。しかも生まれたての赤ん坊にそれができるというのは、どういうことであろうか。
赤ん坊にはまだ理性が芽生えていないから、意識に飛び込んでくるものにだけ敏感に反応する。こちらが恐い顔をするとワット泣き出す。そこへガラガラの玩具を差し出してやると、ピタリと泣くのを止めて、ニコニコして喜ぶ。
こんな臨機応変のはたらきが大人にできるだろうか。大人になると、目に見えたり耳に聞こえたりする物に対して素直に反応せず、自分でこれは何だと考える。そこで判断をするわけであるが、この判断ほど事実を誤るものはなかろう。
赤ん坊にできることで、大人にはできないことが二つある。一つはその純粋な反応である。一々それが「何であるか」とか、「何故か」とか、「如何にすればいいか」というような判断を一切しない。判断というものは実に恣意的なものであり、自己本位なものである。とうぜん、判断には歪みが生じる。赤ん坊にはそういう自己中心の汚らわしさはなく、純粋な感覚的反応があるだけである。
もう一つは対象物に対する反応の素早さである。鏡のように無心に前のものを受け止めるだけで、予想とか記憶というような執着がない。これこそまさに「急水上で毬を打つ」ようなはたらきというべきであろう。