有意と無心の協奏
落花は意有りて流水に随い、流水は心なくして落花を送る―
『従容録』五十二)
桃の花か桜の花か、はたまた椿の花か、山道に沿った小川を流れていく。それはゆらゆらとして、いかにも流れることを楽しんでいるように見える。片や流水はというと、落花を乗せていることなど無頓着の様子で、唯ださらさらと無心に流れている。
この語を読んで私は、ふと「花筏」のことを思い出した。京都の東山に高台寺という寺がある。秀吉の正室である北政所(高台院)が、秀吉の冥福を祈って建てた寺である。庭の奥の小高い処に「ねね」の御霊屋があり、「花筏」を描いた高台寺蒔絵が巡らしてある。
川を下る筏の上に花が落ちる風景であるが、考えてみると、川の流れは無常を表わしているように見える。まして流れとともに素早く下る筏には無常の理がいっそう具体的である。
さらにその上に、はらはらと舞い落ちる花びらが、いのちの儚さを示している。
もとより冒頭の禅語は、ただそのような無常を詠っているのではない。むしろ、無常に気づいていながら、それを楽しんでいるように見える落花と、無常などということさえ意に介さないかのように、無心に流れる水との美しい協奏をいおうとしているのであろう。落花を送る水の無心の姿もさることながら、「落花に意有って流水に随う」というのも、いっそう無常の感を与えているように思われる。
子供の遊んでいる時のような無心な行為は、見ているものの心が洗われる。しかし「意有って」する行為が美しく見えるのは、並大抵のことではないであろう。人間の場合、意図を持ってする行為には、つねに人間的な臭みが伴うからだ。
しかるにこれが自然界の状景となると、実に美しいのだ。いやむしろ「落花は意が有って流水に随っているのだ」と見る禅者の心には、有意も無心もひとしなみに美と映るのであろう。