凡と聖を超えた世界
諸天花を捧ぐるに路無く、外道は潜かに窺うに門無し―
(『碧巌録』十六)
天の神々も花を捧げて讃歎しようとしても、何処にいるかが分からないのでどうにもできない。悪魔外道もまた隙あらばと狙っているが、覗き込む門さえない。本物の禅者は、悟りなどというものの足跡も残さないので、誰の眼にも気づかれることがないということ。
「閑古錐」という禅語がある。使いきって先が丸くなり、錆がついたまま道具箱の底に眠っている錐のことである。これが最も優れた禅者を讃える言葉なのだ。「破木杓」というのも同じで、ヒビの入った杓文字では、もはや味噌汁もすくえまい。それが真に尊敬されるべき禅僧のイメージである。
禅の道は完結を否定する。よく知られている禅語、「百尺竿頭更に一歩を進めよ」がそれである。長い竿を上って先端にまでたどり着くことは、決して容易ではない。しかし人は誰でも苦労して頂上を狙うものだ。そして頂上まで登ればそれで満足して腰を下ろす。
ところが禅は、苦労して到達した悟りの境に、どっかと尻を下ろすことを極端に誡めるのだ。百尺の竿頭に上り詰めたら、更に一歩を進めよという。実際そんなことをすれば、地上に墜落して死んでしまうだけであろう。では、これはいったいどういうことなのか。
百尺の竿頭から一歩を進めよというのは、そこから先、別の次元へ超越せよということである。そこまでは低きから高きへと量的に推移して進んできたものを、今は一気に「質の世界」へと飛躍するのである。ちょうど水が一〇〇℃になると、液体から気体に変質するように。
禅の修行でいうと、前半は悟りを目指して進むが、後半は悟りを捨てるのである。折角上った竿を、スルスルと地上に降りるのである。これを「向上の一路」と言い、「悟後の修行」とも言う。まるで悟りなどなかったかのように、悟りの痕跡を消すのである。
こうして到達した境地は、迷いも悟りも超えたものであるから、仏も悪魔も窺うことができないのである。