時間は人を待ってくれない
生死事大、無常迅速、時人を待たず、慎んで放逸なるなかれ
(『伝灯録』五、永嘉玄覚章)
いまこうして生きていることは、只だ事ではない。何故ならばそれは無常という素早さの中にあるからだ。時間は人間がその中で立ち止まることを許さないのだ。どうして迂闊に毎日を送ることができようか。
ノーベル賞作家のウィリアム・フォークナーに、「時計が止まるとき、時間が蘇る」というのがあると、晴山陽一の『すごい言葉』(文春新書)で知った。われわれは日常、時計と睨めっこして生活しているから、時間と聞くと時計を思い浮かべるであろうが、あれは時間ではなくて空間なのである。
二本の針が昨日も今日も、同じ文字盤の上を回って、時刻や時間の経過を示しているが、これは社会的約束をするための共通した目安である。時間というものは本質的に眼には見えないところで、川の流れのように絶え間なく流れている。時計のように繰り返すことはなく、未来は現在となり過去へと消えていく。
どうかすると、われわれはそういう時の流れの中に立っていると誤解してしまうが、それは動く時計を見るからである。本当はわれわれのこの「存在そのものが時間」なのだ。人間の身体だけではない。およそ形あるものはすべて時間なのである。これを仏陀は「諸行無常」と説かれたのである。
自分というこの存在が、絶え間なく変化している時間そのものだとすると、ひとときものんべんだらりとしてはいられないはずである。しかも時間はただ動いているだけではない。もっと切実な言い方をすれば、時間は閻魔大王からもらった命の水であり、それがこの身体というバケツの底の穴から、今もポトンポトンと「漏れている」のである。あなたにはその音が聞こえるだろうか。