素早い察知のはたらき
―山を隔てて煙を見て、早く是れ火なることを知り、墻を隔てて角を見て、便ち是れ牛なることを知る―(『碧巌録』第一則)
「山の向こうから煙が立ち上っているのを見たら、直ちにあれは火が燃えていると察知し、垣根の外に二本の角が動いたら、一瞬にして牛がいるなと分かるようでなければ駄目だ」ということ。現象の一部を見ただけで本体を見抜く、人間の鋭敏な洞察力を譬えていう。
世の中にはさまざまな人間が住んでいるから面白いのであろう。仮にすべての人間がロボットのように同じであったら、どんなにつまらない人生になることであろう。殊にこの頃は「多様性」(ダイバーシティ)という事が喧しく論じられている。人間社会においてもさまざまな形の多様性が見られるようになってきた。
そういう多様性のなかで生きるためには、柔軟で自由闊達な対応ができなければ生きていけない。特に大切な事は判断の正確さであろう。そうでないと状況の読めない人間として笑われてしまう。
ある視覚障害の友人から聞いた話。交差点の信号が青に変わったので渡ろうとして、ふと知人に電話することを思い出し、電話ボックスの方へ行こうとした。すると親切な人が近よってきて、強引に彼の手を引っ張り、有無を言わせず横断歩道を渡らせられてしまったという。これは親切から出た視覚障害者に対する対処の失敗で笑えない話である。
この人に限らず、気が利きすぎて間が抜けるということは、われわれでも日常において間々あることだ。いわゆる「早合点」というものである。何事にせよ性急過ぎてはいけない。物事はよく落ちついて判断し、しかもその判断を敏速に行動に移さなければならないということだ。行動は敏速でなければならないが、その行動を起こすための判断が「正確」であることが前提条件になる。
冒頭の禅語は、何事につけても敏速で正しい判断のできる人間でなければならないことを説いているが、それが禅の修行者に向けたものであるから、言うまでもなくその判断力の基礎となる「智慧」を要求しているのである。
智慧を欠いた判断は、いくらそれが俊敏になされても、結局は「軽率な判断」となって、後に悔いを残すことになるからである。