骨まで清くなりたいという願い
―死して巌根に在らば、骨も亦た清し―(『寂室録』)
滋賀永源寺の開山寂室元光禅師の「金蔵山壁に書す二首」と題する有名な詩の結句である。全体を意訳すれば、「風が滝の水を撹ているのか、凉しい音が聞こえてくる。前の山際から月が昇って、竹の影が明るい窓に映っている。歳老いてからは、この山中の生活の素晴らしさが、いっそう身に染みる。死んだ後、あの谷川の巌の傍へ葬ってもらえば、さぞかし骨まで清められることであろう」となる。
哲学者の西田幾多郎は日頃から、寂室元光禅師の脱俗的な生きざまを敬慕し、自分の書斎を「骨清窟」と名づけていた。死んでから骨を谷川に捨ててくれたなら、さぞかし骨も清められるであろう、という寂室の願望である。
寂室は七十八歳で示寂しているが、この詩は寂室が諸方を行脚して、しばらく但馬の金蔵山に侘び住まいしたときのものであるから、六十歳頃の作であろう。
「老来殊に覚ゆ、山中の好きことを」と、老いた禅師はこの静かな山の暮らしに満足している。まことに羨ましい老境である。しかも死んでからさえなお、骨の髄まで清くなりたいという潔癖さは、まさに寂室禅師ならではの真面目といえよう。
顧みてこの自分はどうか。徒らに馬齢を重ねてきただけで、心は騒がしく身は汚濁の固まりである。どのようにすればこの自分を、生まれた時のような清浄無垢な身心にして、閻魔大王のもとにお返しできるのだろうか。
さればとて小野小町のように、「われ死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 痩せたる犬の 腹を肥やさん」と、潔くこの臭体を犬やとんびに捧げるほどの勇気もない。まことに結着のつかないままの落日となりそうな気がする。
萩原井泉水の歌に、「程もなく 移り行くべき 家と見つ 障子の破れ 繕いにけり」というのがある。人生という家との別れを目前にして、一生かかって積み上げた罪業を清らかにして去りたいものという、感慨を詠んだものであろう。
もうこの辺りで、いざという時の準備を始めなければならないなあと、私も秘かに考えている。