本当の自分を見ることはできない
―眼は自らを見ず、刀は自らを割かず―(『大慧語録』一)
「水は水を洗わず」というのもある。「心は心を用いず」とか、「仏は仏を求めず」とか「法は法を説かず」とか似たような禅語はたくさんある。どんなものでも、「そのもの自体」は知ることができない。それを知るためには、そのものから離れなければならない。しかし知られたものは、すでに本物ではないのだ。
禅宗の初祖達磨さんがインドから梁の国へやってきたとき、仏教贔屓の武帝がさっそく彼を都に呼んで接見した。彼は達磨にいろんな質問をしたが、達磨の答えはさっぱり理解できなかった。
そこで武帝はついに問うた、「いったい私の前に立っている人は誰ですか」。達磨は「不識」と答えた。「知りません」ということである。これでは皇帝も取りつく島なく、達磨はさっさと揚子江を渡って、北の方へ行ってしまった、と『伝灯録』は伝えている。
ところで達磨が自分のことを「不識」と言ったのは、まるで人を喰ったような、失礼な答えのように見えるが、実はそれが「自己」というものについての、もっとも正確な説明なのである。
もし達磨が、「自分はインドからやってきた者で、すでに百歳を越えております」などと自己紹介したら、それは達磨の「自分について」の説明であって、達磨そのものではない。
われわれはよく他人に対して自己紹介をするが、それは鏡で見て知っている自分であり、意識で作り上げた自分というもののイメージに過ぎない。それは実在ではなくて、架空の実在(ヴァーチャル・リアリティ)に過ぎないのである。
眼は外界のものなら何でも見えるが、自分の眼を見ることはできない。しかもその見ることができないという「不見」のところにこそ、本当の眼があるのである。
同じようにわれわれの知っている自分は、意識を通して知っている自己であって、「自己そのもの」ではない。では本当の自己はどのようなものであるかというと、たとえば夜中ベッドで眠っているとき、自己についての意識はないが、自分は確かに一個の肉の固まりとしてベッドに横たわっている。それこそが紛れもなき実体としての自己なのだ。