成らぬことは一つもない
―石圧して笋斜めに出で、岸懸りて花倒しまに生ず―(『禅林類聚』二)
石に抑えつけられた笋は、斜めになってでも伸びる。断崖絶壁の花はさかしまに咲いている。困難に耐えてでも生き続けようとする笋や可憐な花に、自然の生命力を見せつけられる。いにしえの聖人たちもこのような苦難の末に、ようやく徳の花を咲かせたのであろう。
この頃の人間は、昔の人のような根性を失ってしまったように見える。ちょっとした困難に出会っただけで、簡単にポキッと折れてしまう。歯を食いしばって忍耐するということができなくなったらしい。雨垂れを見よ、継続して落ちる中に遂には岩をも穿つではないか。まことに「継続は力なり」と言われるゆえんであろう。
ドイツのマリア・ラーハ大修道院に滞在したとき、修練長から面白い話を聞いた。「祈りと労働」に明け暮れる修道院の単純極まりない生活は、一時的に滞在するわれわれにとってもじゅうぶんに退屈なものであった。それに耐えるためには、「従順」の精神が大切だというのである。
あるとき若い修道士が入門してきた。彼を指導する役目の修練長が、立ち枯れになって既に久しい庭の木に、毎日の日課として水をやることを命じた。枯れ木に水をやることは何の意味も無いことであるが、そうと知ってやらせるところに「従順」の訓練があるということらしい。
若い修道士は言われる通り、毎朝毎晩、黙々と水やりを続けた。するとどうだろう、その樹木から何年振りかの芽が吹き出てきたというのである。まさに点滴岩をも穿つの類いではないかと、この話は深く私の心に刻まれた。
菊池寛の『恩讐の彼方に』には、主人を殺して出家した禅海が、三十年の歳月をかけて絶壁を掘り抜いた尊い話もある。いずれも即効を求めやすいわれわれにとって、深く胸を打つ話である。