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生より死にうつると心うるは、これあやまりなり せいよりしにうつるとこころうるは、これあやまりなり

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

04月を表す季節の画像

生から死へと移るのではない

―生より死にうつると心うるは、これあやまりなり―(『正法眼蔵』生死)

道元によれば、「生」というのは一つの領域であって、初めと終わりで囲まれている。同じように「死」も一つの領域であって、これも初めと終わりで囲まれている。だから生きているあいだは「生」だけで、死とは無関係。死ねば「死」だけで生とは関係がない。だから「生から死へ移ると考えるのは間違いである」という。

我々にとって、生と死は反対の概念である。生が終わると「死」となり、まだ死んでいない状態を「生」という。誰でもそう考えている。死ぬことによってこの生が終わると思うと、誰でも死が恐くなり、生にしがみつきたくなる。
 人間ばかりではない。一匹の魚でも、一羽の蝶でも、あのゴキブリでさえ、近づいて手を出せば、例外なく逃げようと必至である。実に不思議な動物の本能といわざるを得ない。
 彼らは本能的に逃げるのであって、決して意志をもって逃げたり、怖がったりするのではないであろう。前もって自分の死を知っているのは人間だけである。
 芭蕉の「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」という句がある。明日の死を知らず、今日の命ばかりを精一杯生きて、ジージーと啼いている蝉を憐れんでいるのであろうか。そうではないであろう。むしろ死を知らないでいる蝉を、羨ましく思っているのではないか。
 三島市龍澤寺の中川宋淵老師の句に、「かまきりの 尋常に死ぬ 枯れ野かな」というのがある。こちらははっきりとカマキリに対する憧れである。自分は果たしてカマキリのように自分の死を尋常に受け入れることができるだろうかという、禅者らしい死の直視であろう。
 とまれ、生の先には死が待ち受けていると観念して、前もって死を恐怖するのは、恐らく人間だけであろう。
 それは人間が死を生の否定と考え、人生の最後に待ち受けている最も悲惨な出来事と考えるからである。しかし道元によれば、それは人間の生から死へ移ると考える誤りだというのである。