生とも死とも言えない死体
―生か死か―(『碧巌録』五十五則)
道吾という和尚が弟子の漸源を連れて弔問に出かけた。漸源が棺桶を叩いて、「これは生か、死か」と問うと道吾和尚は、「生とも言わぬ、死とも言わぬ」と言う。何度尋ねても「言わぬ」の一点張り。とうとう和尚は弟子に杖で打ちのめされたという話。生と死は比べられるものではないということ。
考えてみると死ぬということは、生きている者がいうことであって、死んでしまった者には、もはや生も死もないであろう。少なくとも死者にとって生など何の関係もないことだ。そうであれば生きているものにとっても、死など何の関係も無いはずである。しかし、これはよほど死を達観した人にしていえることだ。
他人の死を見て生きている人間にとって、自分の「死」を経験することはできないが、可能性としては厳然たる事実として、自分にも襲いかかってくるものである。そうなるとむしろ、死から眼をそらさず毎日を生きることが、かえって限りある生を充実して生きる手段であり、「死を見つめて生きる」ことは、洋の東西を問わず哲学や宗教の教えるところ。ここでも漸源にとって、死とは何かが大問題であったのだ。道吾和尚は第三者の死についての議論を粉砕したのであろう。
死には第一人称の死から、第二人称の死、第三人称の死まである。第三人称の死はいわば他人事である。タバコ屋の婆さんが死んで若い娘さんに代わったようなもので、お婆さんの死はタバコを買う人にとって、店番の交替でしかない。
第二人称の死は、「お前」「あなた」と呼びあう近親者の死で、深い悲しみを伴う。そのグリーフ(悲しみ)から脱却するには、長い「悲嘆のプロセス」を経過しなければならない。
第一人称の死、つまり自分の死は経験することができない。「自分の死を、追い越すことはできない」のである。自分の死は、自分のことでありながら、体験できないのである。
弟子漸源の問いは、第三者の問題である。道吾和尚の答えは、第一人称の問題であって、それについては議論ができないのだ。