常に謙虚な心を持ち続ける
―寧ろ熱鉄を身に纏うも、信心の人の衣を受けじ―(『虚堂録』八)
「たとえ真っ赤に焼けた鉄板を身につけてでも、信心深い人から衣をもらうようなことはしまい」という意。これは求道者が自分に課する決意であるとともに、他方で信心深い人に対する謙虚な姿勢が示されている。
どのような道であれ、一筋にその道を歩もうとするものは、自分自身に課する不退転の決意に導かれてこそ前進することができる。如何なる甘えも許されないこの道は、徹底的に「自分の力」で歩む道である。それがどのように苦難の道であろうとも、決して他者に依存しては貫くことのできない「自分の道」なのだ。
しかし、この自力の道には、やがて自己過信という穴に墜ちる危険が待ち受けている。この過信は「増上慢」といわれ、古人の最も危惧した悪魔の境域である。この危険を避けるためには、「謙虚」というものが不可欠である。
冒頭の語にはその二面が示されていると思う。「熱鉄を身に着ける」ということは、あらゆる困難をも甘んじて受け入れるという、揺るぎない決意の表明である。
「信心の人から衣を受けない」というのも、やはり自分に向けた自制の決意である。「信心の人」とは、深く自己自身と一つになりきった自己の「理想像」であるが、自分はまだとうていそのような理想像には程遠い「不完全人間」である。どうして今頃、そのような自己の理想に酔っておられようか、という謙虚な自制であろう。
禅の道を進む者にとっては、「大疑団」・「大信根」・「大憤志」を欠いてはならないといわれている。「大疑団」とは、自己存在を脚下から揺すぶるような疑問に撞着すること。「大信根」とは、この疑問に対する答えは、必ず自分のうちから湧き出てくるという絶対的確信。そして「大憤志」とは、この疑問の解決には、命も惜しまないという強い意欲である。