「仏という字さえ聞きたくない」
―仏の一字、吾れ聞くを喜まず―(『趙州録』上)
仏という字だけは聞きたくないということ。趙州の言葉として知られているが、丹霞天然という禅者にも、「どうして悟りを開いて仏にならなければいけないのか。仏などという言葉は永久に聞きたくないわい」(『伝灯録』十四、丹霞章)というのがある。仏教徒としてありえない発言ではないのか。
趙州古仏と崇められた趙州和尚は、当代稀に見る慈悲深い人であった。冒頭の言葉は彼の深い慈悲から出た言葉である。
大乗仏教の説く「根本的な願い」の第一は、「迷いの衆生は限りないほどいるが、これをすべて悟りの岸に渡したいという願い」である。「煩悩は尽きないほどあるが、どうしてもこれを断ち切ってしまいたいという願い」はようやく第二の願いに過ぎない。
これを見て分かるように大乗仏教では、自分が努力して煩悩を断ち切って仏に成ることは二の次で、第一の願いは一切の苦しむ衆生を、安らぎの彼岸へと渡すことでなければならないのである。大乗仏教が小乗仏教と根本的に異なる重要な一点である。
大乗仏教にはまた、自分は衆生と苦しみを共にするために、「敢えて仏にはならない」という菩薩の思想がある。これが「大悲闡提」という思想である。闡提はもともと宗教的天分に乏しくて悟りを開くことのできない人のことであるが、これと違って大乗仏教でいう「大悲闡提」は、衆生の苦しみを救うため、敢えて悟りを開かないという菩薩の精神である。
ある人が趙州に向かって、「和尚様は死んだら何処へ行かれますか」と尋ねると、趙州は「真っ先に地獄に堕ちる」と言われた。「和尚さまのような善知識が、どうしてまた地獄へなどに」と言うと、「貴方に逢えるからだ」と言われたとある。
ある人はこれを解釈して、「趙州はさすが立派だ、死んでからも地獄に堕ちて人を救おうとされるのだから」としているが、これは趙州和尚についての大きな誤解であろう。
趙州はそのように傲慢な人ではないのだ。彼自身、地獄の他には行けないと信じているのである。
徳川期の禅者白隠慧鶴は、自ら「闡提翁」と名乗り、晩年には「南無地獄大菩薩」の大書を多く残している。彼もまた見事な大乗仏教徒であった証拠ではないか。