「花は誰の為に開くか」
-百花春至って誰が為にか開く-(『碧巌録』五)
春になると百花が咲き乱れる。彼らはいったい誰のためにああして美しく咲いているのだろうか。いうまでもなく、それをじっと見つめる人が前に立つのを待ち望んでいるのだ。それに気がつかないということは何という惜しいことだろう。
芭蕉の句に、「よく見れば なづな花咲く 垣根かな」というのがある。春になるとみんながご馳走をぶら下げて桜の下に集まってくる。けれどもほとんどの人は、「花より団子」であるらしい。
芭蕉は静かな庵の垣根に、ひっそりと咲いている小さなペンペン草に目が止まったのだろう。彼は屈み込んで、それを見つめたのである。「よく見れば」という五文字が、この句のいのちになっている。果たして樹の下に群がる桜見の客は、今年限りの花の「いのち」をよく見ているのだろうか。
いったい花は誰のために咲いているのだろう。「年々歳々花相い似たり、歳々年々人同じからず」というではないか。花を知るなら一度見れば済むはずである。それを毎年のように繰り返し見に出かけるのは、一年一年と変わっていく自分を見るためではないか。今年限りの花はまた、今年限りの自分の姿でもある。そう思って花を覗き、花のいのちの短さに思いをいたすべきであろう。
「微風幽松を吹く、近く聴けば声愈々好し」という寒山の詩がある。この詩の核心も「近く聴けば」にあるだろう。近く聴くということは、耳をそば立ててよく聴くということである。すると微かな松の音が、耳に入って自分と一つになるのだ。
南泉普願という禅僧は庭先の花を指さして、「時の人、此の一株の花を見ること、夢の如くに相い似たり」といって嘆いている。世間の人はあの一株の花を見るのでさえ、まるで夢でも見ているようで、自分が花になってしまうほどの見方をしていないというのである。