「一つが分かれば、みな分かる」
-一処透れば千処万処一時に透る-(『雲門広録』中)
どのような問題が山積みしていても、一つの関門さえ突破すれば、あとは一瀉千里、あらゆる問題は一挙に解決できる。逆に言えば、一つの関門が突破できないようでは、残りの関門はすべて突破できないであろう。
私は一九七〇年代、大学紛争が長引き、やがて冬休みに入ると、連日学生部長として独りゲバ学生に囲まれて交渉の前面に立った。どちらを向いても覆面の中から怒号が返ってきた。途方に暮れていたとき、学生課長であったM氏から大事なことを教えられた。
彼は第二次大戦後、中国共産党軍の捕虜となり、共産党軍の兵士として、蒋介石の率いる八路軍と闘ったという。彼の貴重な経験によれば、丘の向こうから敵の歩兵隊が押し寄せてくるとき、その多勢に恐れてはならない。誰か一人を打ち倒せば、あとの連中はいっせいに退散するというのである。
以後、私はもっぱら特定の一人を相手にし、外の連中を一切無視することにした。結果これが功を奏して、紛争終結の契機になった。私の人生における貴重な体験である。解決すべき多くのものがあるとき、たじろいではいけないのだ。最も重要と思われるものに的を絞って、それだけを解決することで、全体が一挙に解決するという論法である。
禅語に「一斬一切斬、一染一切染」ということがある。千本の糸を斬るとき、一本一本と斬る必要はない。千本を束にしてバッサリと斬れば一挙に全部を斬ることができる。千本の糸を染める場合も同じである。
西田哲学にも「一即多、多即一」ということがある。多くのものの一つは、単なるワン・オブ・ゼムではない。一つ一つには他のすべてが入っているのである。一つを軽んじてはならないであろう。